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暗号

()もすずし 寝覚(ねざ)めの刈穂(かりほ) 手枕(たまくら)も ()(そで)(あき)に (へだ)てなき(かぜ)


  徒然草で有名な兼好法師が友人に詠んだ和歌です。なんということのない歌に見えますが、各句の先頭を拾って順に読むと「よね(米)たまへ」、末尾を拾って逆に読むと「ぜに(銭)もほし」。なんと二つも意味のある文章が浮かび上がります。和歌に託された暗号のひとつです。他にも、いろはうたの文字を一定の規則で拾うと「とか(咎)なくてし(死)す」と読めるなどの例があります。
 
 暗号の歴史は大変古く、紀元前19世紀ごろの古代エジプトまで遡ることができるといわれています。古代ローマでは、ユリウス・カエサルがアルファベットを利用した換字式暗号を使っていました。こうした暗号の多くは、軍事的な機密の秘匿のために使われました。レオナルド・ダ・ヴィンチの鏡文字やガレリオ暗号のように、自らの研究内容を当時の体制側(教会の権威)から守ることを目的としたものもありますが、どちらも機密情報を守ることが自らの安全を保証することにつながりました。そして、暗号は、常に、それを作る側と、解読する側(正当な受信者ではないもの)との戦いによって発展してきました。

 長い間、そうして発展してきた暗号技術は、科学技術の粋を集めたものとなりました。数学、言語学、情報理論、量子論といった幅広い知を結集して作り上げられた暗号は、軍事や外交といった分野のみならず、普通の人々のインターネット上でのコミュニケーションとプライバシー保護という、より広範囲な目的で使われるようになりました。しかし、暗号の作成者と解読者との戦いの構図は、カエサルの時代と全く変わりません。現代のブルータスが、カエサルの通信文を読もうと常に手ぐすねを引いているのです。

 この事実を、目の前の危機として突きつけたのが「暗号の2010年問題」です。この問題は、米国国立標準技術研究所(NIST)が、いくつかの米国政府標準の暗号技術が弱まったとして、米国政府機関ではそれらの暗号の使用を2010年までに停止し、新たな暗号技術に移行すると宣言したことで始まりました。

 現代の暗号は、解読するのに何千年も計算を続けなくてはならないといった計算時間の膨大さで機密性を保証していますが、技術が発達すれば、現実的な時間で解読が可能になる可能性があります。現在と同じペースで計算機の性能が向上すると仮定すると、例えば1024ビットRSAなら2015年ごろには、現実的な時間での解読が実現するかもしれないと専門家は指摘しています。

 暗号技術は、WEBサーバーやWEBブラウザー、サーバー証明書、携帯電話、家電やゲーム機等の組込通信機器などに実装されています。このうち、中身がブラックボックス化しがちな組込通信機器以外は、次世代暗号への移行について、比較的対応が進んでいるといわれています。しかし、日本政府が、確定申告などの電子申告に使用されている公的個人認証サービスなどの次世代暗号への移行時期を2010年ではなく2013年を目処とする方針をとっていることもあり、日本での対応は万全とはいえません。

 暗号技術は、私たちの生活を支える情報を正しい受信者に安全に届けるためのよりどころ、「便(よすが)」です。科学技術の発達のスピードに合わせて、社会を守る「便(よすが)」を変えていくことは大変難しいことですが、「便(よすが)」が失われれば、私たちは社会そのものを失ってしまいます。この「便(よすが)」を守るために、日本でも、新しい暗号技術への円滑な移行が実現することが望まれます。
(2010/06/10)