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もののあはれと科学技術

 「狂ふ気は 狂はぬ気なり 子の行くゑ(前句:似る人もなし 乗合の舟)」

 有名な能「隅田川」に題を取った江戸時代の川柳です。人買いに攫われた子を追い都から遠く隅田川の渡しまで来た女は、既に正気を失っています。最初は面白半分で相手をしていた船頭は、女の身の上と子を想う純粋さに打たれ、ちょうど一年前の今日、三月十五日(新暦四月十七日)に対岸に打ち捨てられて亡くなった少年が、女が探し求めていた子ではないかと教えるのです。少年を哀れに思った村人たちが塚に埋め、これから一周忌の法要を行うと。塚に赴いた女は夜の闇の中で我が子に会いますが、夜が明けてみればすべては幻、我が子と思ったのは塚の上にぼうぼうと生える草だったというのがあらすじです。

 狂女が登場する能はハッピーエンドで終わるのが定石ですが、唯一「隅田川」だけが大団円では終わりません。能の典型であるそこはかとない幽玄さではなく、子の不在を受けとめられない女に、子は亡くなり塚と草があるばかりという現実を見せることによって、突き放すように無常観を語るのです。日付が特定されているため、観客は、狂女の姿に桜吹雪く隅田川を重ねるでしょう。これほど強烈で残酷なほど美しい無常観は「隅田川」をおいてほかにありません。

 英国には、この「隅田川」を下敷きにした音楽劇があります。英国人作曲家ブリテンの「カーリュー・リヴァー」で、キリスト教会で上演する寓話劇です。1956年に来日したブリテンは「隅田川」に感銘を受け、舞台を中世イギリスに移した劇に翻案したといわれています。

 筋はもちろん、男性四人で演じるなど能の形式を取り入れた「カーリュー・リヴァー」ですが、結論を奇跡に帰する点が「隅田川」と決定的に異なります。少年の墓は、奇跡を予兆するためか、心や体の病を癒す神聖な場として人々に大切にされているという設定です。その墓で、女は幻ではなく子の霊に会うのです。そして、子が「安心して、お母さん。死者が復活した日に天国で会えるから」と告げた瞬間、女は狂気から解放されるという奇跡が起こります。

 さて、十五世紀に作られた「隅田川」と二十世紀の「カーリュー・リヴァー」、あなたにはどちらがしっくりくるでしょうか?

 女を狂わせたのは、いずれも我が子の不在です。冒頭の歌が示すように、大切な人の不在を想う気持ちは狂気ではないとし、救いを求めるというよりむしろ無常という人間の悲しい運命に想いを馳せるのが日本的な感性でしょう。それは、行き倒れの少年を手厚く葬った村人の心に通じます。対して後者は、神が奇跡を起こして魂を救済するというキリスト教的感性で描かれています。グローバル化が進む二十一世紀にあって、どれくらいの日本人が後者の感性に共感できるでしょうか。第二次大戦後、日本人の生活は欧米化されたといわれています。しかし、日本人を支える精神的支柱はいまだ、極めて日本的な概念である無常観とそれを受け入れる「もののあはれ」という精神なのではないでしょうか。

 「もののあはれ」とは、日常からかけ離れた物事(=もの)に遭遇した時に生まれる、心の底から「ああ(=あはれ)」と嘆息するしみじみとした想いです。この世には、人間の理解を超えた「奇異(くすしあやし)き」物事があまた存在し、無常はその最たるものだとするのです。「奇異さ」を理性でとらえるのではなく、ただ嘆息し、あるがままに受けとめるとは現実を直視することと同じです。だからこそ、無常は受け入れるべきものなのです。この非常にリアリスティックな考え方こそが、自然の脅威と共存してきた大和の人々の心の懐の広さとしなやかな強靭さを生み出したのではないでしょうか。

 「もののあはれ」は、「人間は理性で世界を理解できる」という西洋的な考え方とは対極にある概念です。資本主義が浸透した戦後の日本は「もののあはれ」を忘れ、科学技術で理性を納得させる道を取りました。そして、東日本大震災という「奇異さ」が、端的にかつ強烈にその危うさを浮き彫りにしたのです。

 人心は風土が作ります。そして、風土にはそれぞれ個性があり付き合い方が異なるのです。震災によって揺らいだ科学技術への信頼を取り戻す第一歩は、日本の風土が生んだ先人の知恵「もののあはれ」を感じる心なのではないでしょうか。それが、科学技術という道具を万能視してきた人間の驕りを戒め、古来日本人が大切にしてきた自然への畏敬を取り戻す道なのです。
(2011/04/25)

12:41

不確実性の許容

 「世界は、実は五分前に始まったのだ」

 今、こう言われたら、あなたは信じることができますか。それとも「ありえないことだ」と笑い飛ばしますか。

 これは、十九世紀末から二十世紀にかけて活躍した英国の論理学者で哲学者のバートランド・ラッセルが提唱した有名な「世界五分前仮説」です。哲学における懐疑主義的な思考実験のひとつであるこの仮説は、確実に否定することができないとされています。つまり、「世界は五分前にできたのではなく、ひいては『過去』というものが存在すると論理的に示すこと」は不可能なのです。例えば、五分以上前の記憶があることは、この仮説の反証とはなりません。それは、この世界に生きるすべての人に間違った記憶を植え付けられた状態で、五分前に世界が始まったかもしれないからです。タイムマシンでも発明されない限り、そうでないことを証明する手立てはありません。

 この仮説を読んで、あなたはどう思いましたか。「過去」というよすがを失って、非常に居心地の悪い気分になったのではないでしょうか。それは、「今、生きている」という実存への信頼を支えるのは、過去という概念とその記憶だからです。この意味で過去とは、人間が、今と未来を生きるよすがです。東日本大震災では、津波が、家屋や車などと一緒に、五分前までは確かにそこにあった大切な人々と一緒に過ごしたという生活と実存の記憶を物理的に破壊してしまいました。その映像は世界中を駆け巡り、今日と同じ毎日が永遠に続くと思っていた人々に「未来とは、本来不確かなものである」という事実をつきつけたのです。

 「不確実性(uncertainty)」という言葉は、様々な分野で使われています。例えば、経済学では「確率形成の基礎となるべき状態の特定と分類が不可能な推定」とされます。つまり、不確実性とは、基礎となる状況が一回限りであるなど予測がほとんど不可能な状態を指すのです。これは、前述のラッセルとほぼ同時期に活躍した米国の経済学者フランク・ナイトが唱えた説で、彼は不確実性の例として企業の意思決定を挙げています。企業が直面する不確定状況は、数学的な先験的確率でもなく、経験的な統計的確率でもない、先験的にも統計的にも確率を与えることができない推定であると主張したのです。

 最近の例では、サブプライムローンという過去に経験したことのない領域での損失の拡大が、ナイトのいう不確実性に属すとされています。そして、グリーンスパン元FRB議長が「不確実性、特にナイトの不確実性に直面すると、人間はいかなる時でも、中長期的な資産から安全で流動的なものへのもちかえを図るものだ」と言ったように、人間は不確実性に直面すると、最悪のシナリオを想定して悲観的に行動してしまうのです。これが、大震災後に頻発している「買占め」の原動力です。不確実性が社会や市場の疑心暗鬼を増幅しているのです。

 過去というよすがを社会が見失った今の日本は、不確実性に覆われて「つくるべき明日の姿がどういうものなのか」が見えない状態です。つくるべき明日とは、「希望」の具体的な姿です。地震が起きても起こらなくても、未来が不確実性に満ちたものである限り、人は希望という名の灯がなくては前に進むことができません。
 希望の具体的な姿を描くためにまずすべきことは、私たちが生きる毎日、そして世界とは本来不確かなものであるという事実を、この困難な時代にこそ勇気を持って受け入れることではないでしょうか。これが、不確実性に振り回されずに利用する第一歩となるのです。
(2011/04/10)