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師弟関係の絆

(うえ)天共(てんとも)(そら)とも(いい)(なか)(とおる)(くも)なり、月日(つきひ)(いづ)る方を東とし、入方(はいるほう)は西、ひがしに(むかい)て、右の方を南とし、左の方を北と(いう)

 これは、江戸時代、東日本地域の寺子屋で使用された教科書のひとつ「近道(ちかみち)子宝(こだから)」のはじめの部分です。8才から9才で寺子屋に入った子どもが「いろは歌」を学んだ後で使われました。簡単な地理から衣食住の基本、禁裏(天皇)と城(公方)や神仏の違い、武士と百姓の持ち物などを言葉の連鎖で答えることで、生活に必要な言葉を学べるようになっています。「近道子宝」を終えた後は、人の名前を並べた「源平(げんぺい)」、日本国66カ国と2島の「国尽(くにづくし)」や商取引に使う言葉とあらゆる商品の名前を並べた「商売(しょうばい)往来(おうらい)」に手習いが進みます。

 こうした教科書は、寺子屋の師匠がそれぞれ独自に作っていました。「商売往来」だけでも何百種類もあるといわれています。また、明治期まで義務教育制度ではなかったため、親は子どもにどのような教育を受けさせるか自ら選びました。そのために私塾・寺子屋の番付までありました。入学時期も入学年齢もばらばらだったため、教育カリキュラムも筆子(ふでこ)と呼ばれた生徒一人ひとりに合わせて師匠が考えました。現代と異なり、完全に民間に任されたオーダーメイドの教育だったのです。

 徳川がもたらした天下泰平の世の中は、農村、城下町などの地方都市、江戸・京都・大阪を結んだ一大市場を形成し、未曾有の経済発展を生み出しました。今と同じで、モノよりカネ(貨幣)がものをいい、御家流(おいえりゅう)で書かれた幕府の御触れなど、文書による契約が社会の基本原則になったのです。これは、武士以外の庶民、例えば農民であっても年貢の領収書や金銭貸借の証文が読めないと、無事に世間を渡っていけないことを意味しました。「読み・書き・算用」を教える寺子屋の発生は社会の当然の要請であり、江戸時代の就学率は、幕末の嘉永年間(1850年頃)の江戸府内で70~86%と推計されるほどでした。産業革命後の同時期(1837年頃)のイギリスでは、主な工業都市での就学率が20~25%と言われていますから、世界的にみても驚異的な数字でした。

 また、江戸時代には、人としての礼儀作法を身につけていない者に教育を受ける資格はないという思想が社会の根底にありました。寺子屋の師匠は「読み・書き・算用」に加え、筆子の礼儀作法にも厳しい目配りし、一人前にするという使命を担っていたのです。そして「師弟は三世の契り」という言葉に表されるように、師匠と筆子との関係の多くは師匠が亡くなるまで続く人生の縁(よすが)でした。人生の師たる亡き師匠のために、筆子が費用を出し合って墓を建てる事が珍しくないほど師弟関係は濃密でした。欲得抜きで実用の学問から道徳まで教えてくれる師匠は聖職であり、社会から「お師匠さま」と最高級の尊敬語で呼ばれたのだといわれます。数多くの師弟の縁(よすが)が、社会を信頼という絆で支えていたのです。

 尊敬する人との出会いは一生の財産です。その縁(えん)が、学校という学びの場で得られた利害関係のない師との関係であれば、厳しい人生を生きる縁(よすが)となるでしょう。

 現代日本の教育システムには莫大な資金が投入され、維持されています。しかし、就学年齢の100%入学という数字以外の価値が失われてしまっているのが実態ではないでしょうか。そのひとつが師弟関係の絆という信頼関係であり、そうした数字に表れない価値の喪失が不登校や学級崩壊などに結びついてはいないでしょうか。

 近年、江戸時代を再評価する動きが見られます。今さら江戸時代には戻ることはできませんが、今の私たちの姿を見直す鏡として、先人の知恵ほど身近なものはないのではないでしょうか。
(2010/07/10)