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鶏のとさかと統計データ

「病人を救うのは、宗教者の愛よりも衛生環境である」

 クリミアの天使、フローレンス・ナイチンゲールの言葉です。神の啓示を受けて奉仕に生きることを決意し、ランプを掲げて夜中見回る献身的な看護師というイメージの強いナイチンゲールですが、看護師として実際に活動したのは、クリミア戦争(1853~6年)に従軍し、スクタリ(現在のイスタンブール・ユスキュダル区)の英国陸軍野戦病院で働いた二年間だけで、母国の英国ではむしろ、統計に基づく医療衛生改革で有名です。

 ナイチンゲールがスクタリに到着した1854年の秋頃、病院に収容された負傷兵の死亡率は8%でした。翌年2月に42%まで上昇した死亡率は、5月には5%まで激減します。これは、ナイチンゲール率いる看護師のグループが病院の衛生状態を劇的に改善したためだとする伝記が数多く存在しますが、現在では、同2月に政府から派遣された衛生委員たちが、コレラや赤痢などの感染症が蔓延する病院内の汚染源を特定し、上水と下水を清潔に保ち、換気を良好にするという基本的な衛生管理を行ったことが奏功したとするのが通説です。

 ナイチンゲール自身は、戦後になるまでこの事実に気が付かなかったようです。彼女が気付いたのは、兵士の死亡率の異常な高さは戦傷や極度の栄養失調、物資の不足によるという自説を証明するために、統計学者ウィリアム・ファーに教えを請うて死亡統計のデータをまとめたときでした。病院の不衛生さと過密さこそが死亡率上昇の根源であり、自分が良かれと思ってしてきたことに意味がなかったことを知ったとき、彼女は心神喪失状態に陥ったと言われます。これを乗り越え、基本的な衛生管理を怠ったという事実を隠蔽しようとする軍や当局の圧力を跳ね返し、自らの名声を失うことになっても、信念に基づいて真実を公表するために作ったのが、世界で初めて統計データをグラフ化した、有名な「鶏のとさか(polar area diagram)」と呼ばれるダイヤグラムです。


「鶏のとさか」ダイヤグラム
 死亡統計のデータを単なる数字の羅列ではなく、統計になじみはうすいけれど決定権を持つ女王や国会議員が簡単に理解できるよう、素人でもわかりやすい視覚に訴えるグラフにしたことは、大変画期的で、その後の医療衛生改革の推進に大いに貢献しました。しかし統計学の師ファーは、統計資料があまりに無味乾燥であると主張するナイチンゲールに「統計とは究極的に無味乾燥なものであるべきなのだ」と諭したと言われます。実際、師の反対を押し切って作った「鶏のとさか」には、ひとつ問題がありました。統計データを扇型の面積で表すため、実際よりデータの大小が強調されて図示されるのです。

 現代でも統計データをグラフにする際、こうしたことは頻繁に起こります。空間放射線量のマッピングが最近の代表例でしょう。風や雨に乗って空間を漂う放射線の量を全て測定することは事実上不可能です。そこで、空間放射線量を把握するためには、ある一定の測定条件のもとサンプリングして測定し、集めたデータを統計的に解析して推定することになります。このように、限られたサンプリングデータから、より広範囲な空間の状況を把握するための手法を「空間補間」といいますが、このうち、現在、最も多く使われているIDW(逆距離荷重法)を使ってグラフ化した地図は、サンプリングデータの測定地点の影響を強く受けてしまう点に問題があるという指摘があります。簡単に言うと、IDWを使って空間放射線量の推定値をマッピングすると、ホットスポットがわかりにくくなってしまうのです。

 ナイチンゲールの「鶏のとさか」は、死亡率という既知の統計データについて原因を層別するためにグラフ化したものでした。だからこそ冒頭の発言が生きてくるのです。しかし、空間放射線量のグラフ化は、限られたサンプリングデータから未知の値を推定することを前提とする大変難しいものです。加えて測定につきものの測定誤差と、推定という予測の誤差を加味した高度な統計処理を施さなくてはなりません。しかし、こうした事実は報道も認知もほとんどされないまま、グラフだけが独り歩きしているのではないでしょうか。

 社会が高度化すればするほど、それを読み解くための知識が必要となるのは必然です。公開されたグラフに一喜一憂するだけでなく、グラフを読み解く知識を学ぶことから始めてみませんか。
(2011/09/25)



9:00

答えのない質問

「答えはない。答えは存在したことがない。答えはこれからも存在しない。それが答えなのだ。」

 米国の著述家ガートルード・スタインの言葉です。彼女とその兄弟達は、現代芸術のコレクターとして大変有名です。最近もサンフランシスコ近代美術館で大規模なスタイン・コレクション展がありました。評価も理解もされていなかったマティスやピカソなどの若い芸術家たちに、スタイン家が経済的・精神的援助を行ったことから、二十世紀初頭のパリのアヴァンギャルド(前衛芸術)が始まったといわれます。ガートルードは特に、ピカソのキュビズムに共鳴し、自身の文学に取り入れました。

迷彩柄は、キュビズムの画法を
ヒントに生まれたとされる
 様々な角度から見た物の形を一つの画面に収めるというキュビズムの手法は、一つの視点に基づいて描くルネサンス以来の一点透視図法を否定するものでした。複数次元の視点を一つの平面に収めるというキュビズムが何を意味するのか、当時も百年後の今も、理解することは大変に難しいことのようですが、もしかしたら米国の前衛作曲家チャールズ・アイブズの作品群が手助けになるかもしれません。

 アイブズは、今でこそ現代音楽のパイオニアとして広く知られていますが、生前、その作品が演奏されることはほとんどありませんでした。スタインと同じ年に生まれた彼が作る難解で不協和音ばかりの曲は、ピカソのキュビズム同様、当時は理解されなかったのです。

 難解で好みの分かれるアイブズの作品のうち、「答えのない質問(The Unanswered Question)」は比較的聞きやすい方だといわれ、カラヤンやバーンスタインも指揮しています。弦の緩やかなハーモニーが醸し出す世界に、唐突に交錯するトランペット、そしてフルートなどの木管楽器が奏でる不協和音。まるで、永遠に交わることのないたくさんの平行線といった雰囲気の曲です。そう、複数の次元の異なるハーモニー(調和)をスコア(譜面)という一つの平面に収めたという意味で、曲の作り方がキュビズムと全く同じなのです。

 一方でこの曲は、現代社会の姿をも彷彿とさせます。弦のハーモニーはある一つのレジーム(体制)、例えばプロテスタンティズムに基づく資本主義を表します。トランペットや木管楽器もそれぞれ異なるレジームの比喩です。例えば、イスラム法に基づくイスラム経済、欧州連合の通貨経済統合に中国共産主義経済など。それぞれに美しいと信じられているハーモニーで構成されるレジームが、複数平行して存在し、自分たちにしかわからない音で、相手には答えられない質問を繰り返しているのです。

 10年前の9月11日に起こった忌まわしい出来事も、同じように、異なる次元から非情で暴力的な方法で投げつけられた、答えられない質問だったのではないでしょうか。だからこそ、十年経っても正しい答えがみつからないのではないでしょうか。

 軍隊の「前衛部隊」が語源のアヴァンギャルドという言葉には、芸術のみならず保守的な権威や体制など様々な「何か」への攻撃の先鋒に立つというような政治的なニュアンスがあります。同時多発テロもテロリズムのアヴァンギャルドでした。あくまで政治的要求を通す手段としてテロを使う、同時多発テロ以前のモダン・テロに対して、ポストモダン・テロと呼ばれる同時多発テロは、現代社会の秩序の破壊そのものを目的としています。答えられない質問とは、即ち、冷戦以降の世界を秩序立てているレジームを壊すことの意義の是非なのです。この質問に、答えを出せる人は世界中探してもいないでしょう。

 アヴァンギャルドは、時代の常識からかけ離れているが故に理解されません。ずっと後になってからその意味が少しずつ理解されるようになるのです。スタイン・コレクションの担い手だった長兄レオはキュビズムを否定しました。しかし、ガートルードは理解し、ヘミングウェイに言いました。

「あなたたちは失われた世代なのよ。」

 冷戦後、米国を頂点にアンバランスに発達した資本主義経済というレジームが、同時多発テロによってアンシャン・レジーム(旧体制)になったのであれば、慣れ親しんだ美しいハーモニーだからと言って、アンシャン・レジームだけを唯一解と思いこみ続けることこそが、世界を更なる危うさに陥れるのではないでしょうか。
 (2011/09/10)