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脇役の物語 - パン・ヨーロッパ (下)

「すべての偉大なる歴史的事実はユートピアに始まり実現に終わった」

 オーストリア・ハンガリー帝国貴族の父と日本人の母のもとに生まれた、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの言葉です。1923年発行の彼の最も有名な著作「パン・ヨーロッパ」の冒頭を飾りました。この本は、欧州統合論を具体的かつ論理的に展開した最初のものとされています。

 ウィーン大学で純粋哲学を修めていたリヒャルトが、パン・ヨーロッパ運動という政治活動に転じた直接のきっかけは、オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊と第一次世界大戦の戦後処理がもたらした混乱でした。「民族自決」の名の下に、米国大統領ウィルソン主導のヴェルサイユ体制で作られた新しいヨーロッパ地図の境界が、それぞれの地域の社会的・経済的背景を無視して引かれたため生じた混乱でした。この地図の主役は、あくまで戦勝国の思惑という政治で、大戦で荒廃したヨーロッパの人々をどのように食べさせていくかを考える経済は、脇役以下にしか扱われなかったのです。

 これに対し、ロシアの軍事的脅威や米国の経済力に対抗してヨーロッパに平和と繁栄をもたらすためには小国分離では立ち行かない、だからこそ政治的・経済的に統合しヨーロッパという「大国」として存在しようというパン・ヨーロッパ思想は、「ユートピアではあるが、高邁でありかつ納得がゆくユートピアである」として喝采を持って社会に受け入れられ、ハンブルクの銀行家による莫大な寄付と、オーストリア政府提供のホーフブルク(王宮)の建物を元手に快進撃を続けました。しかし、この活動の行く手を突如、二つの影が阻みます。1929年の世界恐慌と1933年のヒットラーの首相就任です。

 ニューヨーク証券取引所の株価大暴落に端を発した世界的な金融恐慌に対して欧州各国は、自国経済の再建を最優先課題として保護主義的政策をとるようになりました。つまり、パン・ヨーロッパ思想とは正反対の政策をとるようになったのです。これにより、第一次世界大戦後に続いていた軍縮と国際平和協調の路線は、一気に崩れてしまいました。

 同じ頃政権を取ったヒットラー率いるナチス・ドイツは、民族自決を逆手にとり、チェコスロバキアやポーランド、オーストリアなどに住むドイツ系住民の保護を名目にこれらの地域を侵攻し始めます。いわば、排他的なゲルマン民族優越主義という「ユートピア」を目指して欧州統合をもくろむヒットラーにとって、リヒャルトのパン・ヨーロッパ運動は邪魔でしかありませんでした。ナチスの台頭はパン・ヨーロッパ運動の弾圧を意味したのです。それでも細々と活動を続けていたリヒャルトは、1938年のオーストリア併合によって国を追われ、ヨーロッパを転々としたあと米国へ亡命せざるをえませんでした。前回ご紹介した映画「カサブランカ」は、このあたりの話をモデルにしているといわれます。

 パン・ヨーロッパ運動が始まった頃から、欧州統合には様々な議論がありました。中でも統合によって生じる相互作用と相互対立の問題、そして、域内体制と加盟国それぞれの国内体制の違いから生じる問題の二つは、様々に議論されてきたにも関わらず未だ答えを見いだせていません。通貨統合一つをとっても、「欧州統合は戦争か平和かの問題であり、ユーロが平和を保証している」(コール独元首相)という言葉が象徴するように、リヒャルト同様、通貨統合を安全保障上の政治的意思と捉える大陸諸国と、単なる経済上の試みと考える英国のような国々とでは隔たりがありすぎるのです。

 リヒャルトは、古代ギリシャが滅亡した理由について「それは富である。ただ富のみである」と答えたデルフォイの神託を、ヨーロッパの未来に重ねて遊説したといいます。富のために堕落し、「パン・ヘラス(ギリシャ)」の成立が遅きに逸したがために、マケドニアに滅ぼされた古代ギリシャと同じ轍を踏まないようにと。

 リヒャルトが夢見た経済規模や政治体制が異なる国々がひとつの大国になるというユートピアは、EUの発足で実現しました。しかし、2009年10月のギリシャ政権交代に始まる国家財政の粉飾決算の暴露から未だ二年以上続く経済危機の連鎖は、パン・ヨーロッパ思想そのものが、リヒャルトの時代から同じ問題を抱え続けていることを改めて突きつけているようです。富のために、連帯して危機を乗り越えられないのであれば、EUそのものの存在意義と求心力を失いかねないのです。

 全ての国には歴史という名の物語があります。今般の経済危機の連鎖が示す混乱の背景にヨーロッパの長く複雑な物語があることを知ったとき、今問われていることがパン・ヨーロッパ思想そのものであることがわかるのではないでしょうか。
(2011/11/25)





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脇役の物語 - パン・ヨーロッパ (上)

「君の瞳に乾杯(Here's looking at you, kid.)」

 映画「カサブランカ」の名文句です。「カサブランカ」は、1942年、米国の第二次世界大戦への参戦後わずか六週間で制作された低予算映画で、同年11月26日に公開されました。

 映画を観たことがない方でも、一回位はどこかでこの気障なせりふを聞いたことがあるでしょう。ハンフリー・ボガードがイングリッド・バーグマンに囁くからこそ成立する名訳ですが、英語のニュアンスは若干異なるようです。気障というより、運命的な再会を果たした恋人への不器用な想いがにじむセリフと受け取られているようで、本国でも米国映画協会が選ぶ名セリフベスト100で5位(2005年)に入るほど人気があります。

 映画の舞台となる仏領モロッコの都市カサブランカは、当時、ナチス・ドイツから逃れてリスボン経由で米国に亡命するヨーロッパの人々が、必ず通過しなければならない寄港地でした。カサブランカを統治していたのは、1940年のナチス・ドイツによるパリ陥落後に成立した親独政府ヴィシー政権で、同時期、英国ではシャルル・ドゴールが亡命政権を樹立、BBCを通じて内外のフランス人に対独抵抗運動(レジスタンス)を呼びかけており、フランスのみならず、世界には親独と対独という二つの価値観が併存していました。

 こうした時代を描いた「カサブランカ」を、当時の業界紙は「見事な反枢軸国プロパガンダ」と評しています。作品中、米国の敵国ナチス・ドイツを徹底的に悪役として描くなどプロパガンダ的なシーンが数多くあるのは事実で、レジスタンスを擁護する反独シーンもたくさん登場します。中でも有名なのが、ボガード扮するリックの酒場で「ラインの護り」をこれ見よがしに歌うドイツ士官たちに対抗して、イルザ(バーグマン)の夫ラズロが「ラ・マルセイエーズ」をバンドに演奏させるシーンでしょう。楽器だけの演奏だったはずが、いつしかその場にいた客全員の大合唱となり、ドイツ士官たちを追い出すほどに盛り上がります。ナチス・ドイツに愛国心で立ち向かう勇気を歌に託した名場面です。

 このレジスタンスの英雄的指導者ラズロを演じたのが、ウィーン貴族の家に生まれたポール・ヘンリードでした。長身で優美な彼がイルザをエスコートする姿は本当に美しくて、リックのハードボイルドな魅力をも引き立たせる名脇役ではないでしょうか。そして、ストーリー上も名脇役となったラズロのモデルといわれているのが、欧州連合(EU)の父、リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギーです。

 栄次郎という名が示す通り、リヒャルトは日本人の血を引いています。父は、明治期にオーストリア・ハンガリー帝国の大使として日本に赴任していたハインリヒ、母は、東京牛込の油屋兼骨董屋に生まれた青山光子で、二人の結婚は記録に残る届出された初めての国際結婚といわれます。

 二人の次男として東京に生まれ、ボヘミアとウィーンで育ったリヒャルトが1923年、若干29歳で出版したのが「パン・ヨーロッパ」です。出版社は妻のイダ・ヨーラントが出資するパン・ヨーロッパ社です。ちなみに、欧州三大女優とよばれた十四歳年上のイダと学生のとき駆け落ちし、後に正式に結婚したリヒャルトは、光子から勘当されています。

 リヒャルトのパン・ヨーロッパ思想の目的は、ソ連の軍事的侵略の危険に対処すること、ヨーロッパの経済的統合によって米国の大規模経済に対処すること、ヨーロッパの平和の三点でした。彼は、世界を英国、米国、ソ連、アジア、ヨーロッパの五圏に分けて考え、アメリカ合衆国のように、ヨーロッパをひとつに統合した欧州合衆国を設立することで、ソ連の軍事的脅威や米国の経済力に対抗し、ヨーロッパに平和をもたらそうと提唱したのです。この思想の根底には、中央ヨーロッパの民族的な複雑さにほとんど考慮しないで行われた第一次世界大戦の戦後処理への反発がありました。米国大統領ウッドロウ・ウィルソンが主導したヴェルサイユ体制によって分断された社会・経済関係の「再統合」を図るため、ヨーロッパ全体を一体的に捉えてひとつに統合するパン・ヨーロッパ思想は、一大センセーションを巻き起こし、リヒャルトは一躍ヨーロッパ文壇の寵児となりました。

(次回に続く;2011/11/10)