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舟中規約

「狂瀾怒濤は険也と雖も、
還って人欲の人を溺れしむるに如かず」

 荒れ狂う大海の大波が恐ろしいとはいえ、人が欲に溺れるのに比べればそれほどではない。豊臣秀吉が始めた朱印船貿易で財を成した、京都の豪商角倉(すみのくら)家の「舟中規約」第四条の冒頭文です。「舟中規約」に誓約しなければ、角倉船に乗ることは許されませんでした。これを定めたのが、高瀬川などの河川開発事業で有名な角倉了以(りょうい)の長子、素庵(そあん)です。日本朱子学の祖といわれる藤原惺窩(せいか)に教えを仰いで共に作ったと言われます。

 素庵は実業家ですが、学究肌の文化人で、若い頃は父の反対を受けながらも惺窩のもとに通い学者を目指していました。林羅山を惺窩に推挙することで、羅山が徳川家康の師となる道を作ったのは素庵です。能書家としても知られ、書の教えを受けた本阿弥光悦と共に「寛永の三筆」のひとりにもなっています。隠居後は版元として出版業に携わり、光悦や俵屋宗達と共に古活字の傑作「嵯峨本」を刊行したことでも知られます。嵯峨本は日本の活字・印刷文化の最初期の書籍群で、そのうちの一つ「嵯峨本徒然草」上下巻が、三月下旬に京都で開催される古書展に五千万円で出品されると話題になっています。大変美しい行・草書体の漢字とひらがなからなる活字の書き手は光悦だというのが通説ですが、素庵という説もあります。文字はもちろん、雲母粉を刷り込んだ「雲母(きら)刷り」の紙を多用するなど、装幀の美を追求しつくした豪華本で一時代を築いた嵯峨本は、後の木版印刷につながる印刷技術の基盤となりました。

 しかし、何と言っても素庵の本業は、父の跡を継いだ国内外の交易と河川開発でした。中でも、朱印船貿易では日本国回易大使司という公的地位を務め、京都の伝統工芸品の需要を伸ばし、新たな技術開発や生産効率の飛躍的な向上に貢献しました。金銀、絹織物、屏風、陶芸、漆器など高値で取り引きされる積荷を満載した船を往復する朱印船貿易は、当時、一回の渡航で何万両もの巨利を得られるビックビジネスでした。主に安南国(今の北べトナム地方)と往来した角倉の船は、800トン積みで長さ20間(約36メートル)、幅9間(約16メートル)、乗員は400人近くという朱印船の中でも群を抜く巨大さで、渡航回数も最多を誇っています。角倉家は、この事業で国家予算規模の河川開発事業をも担えるほどの資本基盤を築いたのです。

 一方で貿易船の航海は海賊の被害などが非常に多く、大変危険なものでもありました。角倉船も何度か危険に遭遇したと言われます。この長期に渡って大人数で挑む危険な航海生活の規範として定められたのが「舟中規約」です。些細な事柄を別決めした第五条を除くとたった四条の短いものですが、世界を相手にする経済活動の倫理綱領として、グローバリゼーションが進む今日においても十分に通用する内容となっています。

 まず、第一条で自利利他の精神を説きます。貿易とは他にも己にも利益をもたらすためのものであり、他に損失を与えることで己の利益を得るものではない。他と己とが共に利すれば、たとえその利がわずかであっても得るところは大きいと説くのです。

 第二条は異邦人蔑視の戒めです。人間の本性はいずれの国でも同じ、お互いの共通するところを忘れて風俗や言語など異なるところばかり嘲るような心ないふるまいをして日本の恥を晒すな、異国で人徳の優れた人に会ったなら、師と仰いでその国のしきたりを学び、かの地の習慣に従えと説きます。

 第三条は相互扶助の精神。人間みな兄弟だから、病に飢え、寒さなど苦しいときこそ助け合え、苦しさから一人だけ逃げようなどと考えるなと説きます。そして、第四条が前述の自らの欲への戒めです。

 素庵が生きた時代から四百年後の現代、世界はこの四つの戒めを守れているでしょうか。今世紀に入って以降、リーマンショックの一瞬の時期を除いて高騰を続ける原油価格の動向を考えると、守れているとはとても思えません。

 西側諸国とイランの緊張の高まりや民主化の影響をはじめとした中東情勢の不安定さ、中国やインドなどの新興国の飛躍的な原油需要拡大、需給逼迫による価格高止まりを見越したヘッジファンドなどによる原油先物への投機等々、原油価格上昇の主因とされる全ては、人間の欲に端を発しているようです。しかし、欲は、朱印船貿易や嵯峨本のように文明を進歩させもすれば、滅ぼしもするのです。

 国際通貨基金(IMF)が指摘するように、原油価格の上昇は世界経済に対する新たなリスクとして認識されつつあります。「舟中規則」に習って異邦人蔑視を止め、自利利他と相互扶助の精神で、人の果てしない欲望に箍(たが)をはめる方法を見つけないと、世界が欲の波に溺れてしまう日も近いのではないでしょうか。
(2012/03/25)


9:39

不確かさの地図を描く -シナリオ・プランニング-

「大抵の場合、人は好んで己が欲するものを信じる」

 ユリウス・カエサルの「ガリア戦記」に登場する言葉です。

 カエサルの副将ティトリウス・サビーヌスは、ガリア北部(現在の仏ノルマンディー地方)の戦闘で、補給線を襲うウネッリ族の大軍からカエサルの後背を守る別働隊を指揮していましたが、好機に恵まれず、長期戦を余儀なくされていました。有利な地形に陣を敷いてはいるもののそこから動かず、敵が仕掛けて来るのを慎重に待つサビーヌスを、敵はもちろん味方も腰抜け扱いしますが、それこそが彼の作戦でした。サビーヌスは、頃合を見計らって、ローマ軍の逃亡兵のふりをさせた配下のガリア人を敵陣に送り込みます。「ウェネティ族に苦戦しているカエサル支援のため、明晩には退却するだろう」というデマを流すために。予想外の長期戦に苛立っていたウネッリ族はこの情報に飛びつき、今がチャンスとばかりに準備も十分にせずにローマ軍に急襲を仕掛けるのですが、有利な地形で待ち構えていたサビーヌスとの戦闘は当然不利で、大敗を喫するのです。

 カエサルは、サビーヌスの躊躇、ウネッリ族に補給路を断たれたことによる食糧不足、ウェネティ族に対して好戦的、そして脱走兵の証言というローマ軍に関する四つの独立事象がローマへの急襲というウネッリ族の行動を引き起こしたと分析しています。なぜなら大抵の場合、人は好んで己が欲するもの(情報)を信じるからです。

 カエサルの時代から二千年以上経った現代でも、この言葉は通用するようです。わが国に導入された事業継続マネジメント(BCM)が、欧米のBCMと異なり、大規模地震や新型インフルエンザ等の特定災害におけるひとつのシナリオに基づく対策のマニュアル化をその中心としてしまったのもその一例でしょう。大規模地震を最大の脅威とみなすわが国固有の事情もあり、防災に代表される原因を管理(抑制)する原因管理の思想の下、「原因=特定災害を想定すれば、災害シナリオも想定できる」という、多くの人が信じたい思想を信じてしまったのです。

 しかし実際には、ロジックとしてどんなに精緻な災害シナリオを描いても、そのシナリオが既知の変数(過去)のみに基づくものである限り、未来に起きる災害がシナリオ通りに起きる保証はどこにもないのです。既知、即ち過去の知見には、実際に起こったことの全てが含まれているわけではなく、未知、或いは不確かさが含まれているのですから。東日本大震災は、災害とはもともと不確かなものだという事実を私たちに改めて突き付けたように思います。現実の災害は、人間が勝手に作ったシナリオ通りには進みません。マニュアル化はある程度のところまでしかできず、結局は状況に応じた臨機応変な対応をするしかないのです。

 一方で、事態の進展に応じて不確かさ=リスクを正しく認識し、対処するのは大変難しいのも事実です。一般に人間は、リスクの評価については近視眼的になり、不確かな選択肢からの選択に際しては臆病になる傾向があります。東日本大震災でも「原発事故でSPEEDIの結果を不確かだといって無視した」、「100mSv以下の放射線量に安全・危険の区分をつけたがる」といった不確かさへの反発や無視が見られました。

 では、どうすればよいのでしょうか。まずは、どれだけ科学技術が進歩し、文明が高度化しようとも、世の中には人智では計り知れない不確かなことがあるという事実を、勇気を持って受け入れる度量を持つことが大切でしょう。これは、リスクを真に理解することと同義であり、不確かさに振り回されずに「利用」する第一歩です。

 また、不確かさに対応するための心の準備も大切です。このために有効とされているのが、欧米企業で事業戦略の立案や危機管理等に活用されている「シナリオ・プランニング」です。起こり得る未来を、誰もが理解しやすい複数の物語(シナリオ)という形で仮想的に経験することで心の準備をし、変化の予兆を見逃さず、不確かさに対応できるような事前策を練る手法ですが、「複数の未来」の実現可能性の確率は求めません。眼前にある状況がこれからどう進展していくのかなどの不確かな点も含めて大まかな未来の地図を描き、組織を構成する人々がそれを等しく経験し共有しておくことに意義があるからです。前述のサビーヌスとウネッリ族との戦いに例えれば、ローマ軍に関する四つの独立事象を扱うとき、ウネッリ族が採用した己に有利なシナリオだけではなく、敵方に有利なシナリオも考えて皆で共有し、策を講じるということです。

 不確かさに対応するときに大切なのは、間違った方向に行くことを避け、大まかな正解にたどりつくことです。冒頭のカエサルの言葉を忘れず、ぼんやりとしたものでもよいから不確かさの地図を描いてみることから始めてみませんか。
(2012/03/10)