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不確実性の許容

 「世界は、実は五分前に始まったのだ」

 今、こう言われたら、あなたは信じることができますか。それとも「ありえないことだ」と笑い飛ばしますか。

 これは、十九世紀末から二十世紀にかけて活躍した英国の論理学者で哲学者のバートランド・ラッセルが提唱した有名な「世界五分前仮説」です。哲学における懐疑主義的な思考実験のひとつであるこの仮説は、確実に否定することができないとされています。つまり、「世界は五分前にできたのではなく、ひいては『過去』というものが存在すると論理的に示すこと」は不可能なのです。例えば、五分以上前の記憶があることは、この仮説の反証とはなりません。それは、この世界に生きるすべての人に間違った記憶を植え付けられた状態で、五分前に世界が始まったかもしれないからです。タイムマシンでも発明されない限り、そうでないことを証明する手立てはありません。

 この仮説を読んで、あなたはどう思いましたか。「過去」というよすがを失って、非常に居心地の悪い気分になったのではないでしょうか。それは、「今、生きている」という実存への信頼を支えるのは、過去という概念とその記憶だからです。この意味で過去とは、人間が、今と未来を生きるよすがです。東日本大震災では、津波が、家屋や車などと一緒に、五分前までは確かにそこにあった大切な人々と一緒に過ごしたという生活と実存の記憶を物理的に破壊してしまいました。その映像は世界中を駆け巡り、今日と同じ毎日が永遠に続くと思っていた人々に「未来とは、本来不確かなものである」という事実をつきつけたのです。

 「不確実性(uncertainty)」という言葉は、様々な分野で使われています。例えば、経済学では「確率形成の基礎となるべき状態の特定と分類が不可能な推定」とされます。つまり、不確実性とは、基礎となる状況が一回限りであるなど予測がほとんど不可能な状態を指すのです。これは、前述のラッセルとほぼ同時期に活躍した米国の経済学者フランク・ナイトが唱えた説で、彼は不確実性の例として企業の意思決定を挙げています。企業が直面する不確定状況は、数学的な先験的確率でもなく、経験的な統計的確率でもない、先験的にも統計的にも確率を与えることができない推定であると主張したのです。

 最近の例では、サブプライムローンという過去に経験したことのない領域での損失の拡大が、ナイトのいう不確実性に属すとされています。そして、グリーンスパン元FRB議長が「不確実性、特にナイトの不確実性に直面すると、人間はいかなる時でも、中長期的な資産から安全で流動的なものへのもちかえを図るものだ」と言ったように、人間は不確実性に直面すると、最悪のシナリオを想定して悲観的に行動してしまうのです。これが、大震災後に頻発している「買占め」の原動力です。不確実性が社会や市場の疑心暗鬼を増幅しているのです。

 過去というよすがを社会が見失った今の日本は、不確実性に覆われて「つくるべき明日の姿がどういうものなのか」が見えない状態です。つくるべき明日とは、「希望」の具体的な姿です。地震が起きても起こらなくても、未来が不確実性に満ちたものである限り、人は希望という名の灯がなくては前に進むことができません。
 希望の具体的な姿を描くためにまずすべきことは、私たちが生きる毎日、そして世界とは本来不確かなものであるという事実を、この困難な時代にこそ勇気を持って受け入れることではないでしょうか。これが、不確実性に振り回されずに利用する第一歩となるのです。
(2011/04/10)

11:24

ステークホルダー

 「あふみの() 磯うつ波の いく(たび)か 御世にこころを くだきぬるかな


 安政7年(1860年)正月、近江彦根藩第15代藩主井伊直弼は、御用絵師狩野永岳に描かせた正装姿の自画像にこの歌を添えて、井伊家の菩提寺に納めたと伝えられます。幕末の数々の困難と、それに幕府大老として力を尽くしてきた自身の心中を、寄せては返す琵琶湖の波に重ねたこの歌は直弼の人生そのもののようです。2ヶ月後の3月3日(新暦3月24日)、直弼は桜田門外の変で落命しました。

 桜田門外の変は、直弼が安政5年(1858年)に朝廷の勅許無しで日米修好通商条約の調印に踏み切ったことに端を発します。調印の反対派である吉田松陰らを安政の大獄により処罰したことや強権的な政治に対する反発から攘夷派などに恨みを買い、江戸城桜田門外で暗殺されたのです。

 明治維新後、井伊家からは直弼の遺品と思われる大量の洋書や世界地図が発見されたといわれています。イギリスの詩人バートン・マーチンが直弼に寄せた詩「彦根城にのぼると/小人には琵琶湖がみえる/大人には日本がみえる/偉人には世界がみえる」のとおり、直弼にとって琵琶湖の波は、開国を迫られて日本が乗り出さざるを得なくなった世界の海に渦巻くグローバリゼーションの荒波に見えたのではないでしょうか。

 このような大局的な視点は、彦根藩が位置する近江盆地の気風のようです。古くから都と東国諸国を結ぶ交通の要衝で、藤原氏をはじめ延暦寺、園城寺、日吉大社など数多くの荘園が存在した近江は、人とモノと情報が頻繁に行き交う日本の先進地域だったからです。ここで、今日の大企業の中にも系譜を引くものが多い「近江商人」が生まれました。

 生き馬の目を抜くような土地では、大局を見据えた者しか生き残れません。近江商人の大局のひとつが有名な「三方よし」でしょう。この言葉そのものは後世の研究者が象徴的に使用したもので、原典は宝暦4年(1754年)中村治兵衛の家訓「たとえ他国へ商内に参り候ても、この商内物この国人一切の人々皆々心よく着申され候様にと、自分の事に思わず、皆人よき様にとおもひ、高利望み申さず、とかく天道のめぐみ次第と、ただそのゆくさきの人を大切におもふべく候…」といわれています。ここで注目されるのは「商売に回る国一切の人を大切にする」という点です。これは1984年、米国の経済学者フリーマンが、ステークホルダーを世界で初めて定義した論文で示した「インフルエンサー・ステーク(influencer stake)」に類する概念です。企業の持ち分を有する株主や取締役などの「エクイティ・ステーク(equity stake)」、従業員、顧客、取引先など経済的な利害を有する「経済/市場ステーク(economic or market stake)」と異なり、インフルエンサー・ステークは、持ち分も経済的な利害もないが企業に何らかの影響を与えることができるか企業から何らかの影響を受ける者、即ち社会=世間です。商売先の国一切を大切にするとは、このインフルエンサー・ステークを大切にすることと同じなのです。

 こうした考え方が生まれた背景には、商圏が国内に限られた鎖国時代の幕藩体制とは中央集権体制ではなく各藩によるそれぞれ独立した統治体制だったことがあるのではないでしょうか。「お国ことば」という言い回しがありますが、彦根藩と桑名藩とでは国が違ったのです。近江商人は国を超えて活動する、江戸時代のグローバル企業そのものでした。

 異国で開店して商売を発展させるためには、もともと縁もゆかりもなかった人々からの信頼を得ることが大前提で、それは近江商人も現代企業も全く同じです。そして、ステークホルダーという外来語が持つ意味は、日本の商習慣でも昔から大切にされていた理念と同じなのです。
(2011/03/10)