11:07

サステナビリティ

 「私は流行をつくっているのではない。スタイルをつくっているの」

 20世紀を代表するフランスのデザイナー、ココ・シャネルの言葉です。シャネルと言えばマリリン・モンローが愛した香水No.5を思い出す方が多いかもしれません。しかし、それより早くシャネルがつくりだしたもの、それがジャージー(ニット)のドレスでした。20世紀初頭のヨーロッパの女性たちのドレスは、どれもレースで飾り立てられコルセットで締め付けられる窮屈なものでした。ある日、男物のセーターを着てみて体が開放される感動を味わったシャネルは、それまで下着にしか使われなかったジャージー素材で動きやすく着心地の良いドレスを作り、大評判となりました。シャネルが提案したジャージーをアウターに使うという価値観の変換は、単なるファッション(流行)に留まらずスタイルとして現代まで続いています。他にも男物のスラックスを女性用に転用したパンツ・ルックやミリタリー・ルック、喪服の色である黒を普段使いとしたエレガントなリトル・ブラック・ドレスなど、シャネルが初めてファッションに取り入れスタイルとして定着したものは数え切れません。

 1980年代後半以降メディアで喧伝されるようになったサステナビリティという言葉も、単なる流行語ではなくスタイルとして世の中に定着しつつあるようです。地球に優しいライフスタイルを提案するサステナブルファッションをはじめ、エコ家電にハイブリッドカーとサステナブルな製品がもてはやされています。このサステナビリティという言葉は、前回取り上げた「持続可能な発展(sustainable development)」に由来します。この言葉は1987年に国連に答申された報告書「われら共通の世界」で使われました。「将来の世代のニーズを損なうことなく、今日の世代のニーズを満たすような開発」というのがその定義で、これに対する賛同の輪が瞬く間に世界中に広がり、「持続的な発展」の恩恵を受ける企業は、これを支えるために社会的責任を果たさなければならないとされるようになったのです。

 異なる世代間の不平等をなくすというこの定義が広く受け入れられたのは、この言葉が先進国と発展途上国で異なる解釈を可能にするからだといわれています。即ち、発展=開発の時代は終わったと考える先進国は、従来の一方的な開発のあり方を否定し持続可能性の実現に焦点を置きます。対してこれから発展=開発に取り掛かる発展途上国は、開発自体を否定するのではなく、持続可能性の実現に配慮する開発のありようを考えればよいと解釈するのです。開発によって環境破壊が進む可能性が高いことは明らかなのにも関わらず、環境と開発に矛盾はなくむしろ調和すべきだとする「持続可能な発展」という言葉は、利害関係が対立する国際社会にとって大変便利な言葉であり、政治的な色合いが濃い言葉でした。

 たとえ国際的に広く使われる言葉であっても、先日閉会したCOP16の議論のように政治的な意図で玉虫色の解釈が許されるのであるならば、現実的かつ具体的な問題解決の糸口とはなりません。この点が企業の「持続可能な発展」への取り組みの足かせとなっています。しかし、月面着陸したアポロ11号の映像が示したとおり、地球上に存在する誰もが、企業も人間も動物も植物も「地球号」の乗組員=運命共同体で、乗り組む「地球号」は、今、温暖化や異常気象という名の悲鳴を上げているということは紛れもない事実です。

 サステナビリティに取り組むということは、現在と未来の「地球号」の乗組員を守ること、即ち、誰でもない私たち自身の現在と未来を守ることだということを改めて認識することが必要なのではないでしょうか。セキュリティ業界も例外ではありません。

 さて、シャネルの言葉には続きがあります。「流行は色褪せるが、スタイルだけが不変なの」

 「持続可能な発展」に始まる企業のサステナビリティへの取組みが単なる流行ではなく、ビジネスのスタイルとして定着することが望まれます。
(2010/12/25)

11:04

CSRの意義

 「二重の利を取り、甘き毒を喰ひ、自死するやうなこと多かるべし」


 江戸時代の思想家で倫理学者の石田(いしだ)梅岩(ばいがん)の言葉です。1729年、梅岩は45歳のときに京都の借家にて、商人のあるべき心構えと行動に関する思想についての無料講座をはじめました。「石門心学」と呼ばれる思想の始まりです。元禄時代の余熱が残る当時、「商人と屏風は曲がらなければ立たない」といわれるほど商人は強く批判されていました。そこで梅岩は、「商人が利益を得るのは、武士が禄をもらうのと同じ」と唱え、商人が仕事を通じて利益を得ることは当然のこととしました。しかし、そのありようは冒頭の文が示すとおり、分を超えた利益をむさぼろうとすれば必ず自滅すると断じました。「実の商人は、先も立、我も立つことを思うなり」であり、相手方も自分をも生かすところを探すことに商人の本分があるとしたのです。この考え方は、近江商人の「三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)」と並んで、日本における企業の社会的責任(social responsibility)の原点とされます。

 梅岩の時代から約280年経った現代、企業をはじめとした社会を構成する組織の社会的責任に関する国際規格ISO 26000が発行されました。これによれば、社会的責任の目的は「持続可能な発展(sustainable development)」に貢献することとあります。つまり、「持続可能な発展」の実現を目指すために、企業の社会的責任は社会を守る便(よすが)となることを国際社会が認めたのです。

 セキュリティ業界を含め、社会を構成するすべての企業は、この社会的責任から逃れられることはできません。ただ、防犯や防災に関する製品やサービスを生業とするセキュリティ産業は、企業利益と公益が直接的にほぼ一致する珍しい産業です。人や企業や社会を守る製品・サービスを作って売るという企業利益が、人や企業や社会の安心・安全を守るという公益に直結しているのです。世の中には星の数ほど多くの産業がありますが、ひとつの産業が生み出す価値(value)と公益とが直接的に一致する業種は多くはありません。

 しかしセキュリティ産業の社会的責任を考えるとき、「先も立」てることと「我も立つ」ことがほとんど同じ意味となるという考え方は、残念ながらまだ、社会においても業界自体においても認識されていないように思われます。企業活動における利益実現が主の目標で、社会的責任は従と考えている企業経営者はいまだ多いのが現実ではないでしょうか。安全・安心を売り物にするセキュリティ業界であっても、万一個人情報などの機密情報漏えいなどの事件を起こせば、悪意かそうでないかは別としても、利益実現を前にして結果的に二重の利を取り甘い毒を喰らったと世間に思われてしまうリスクがあることを常に認識する必要があるのです。

 このシリーズでは、世界的な課題である「持続可能な発展」を実現するために、企業はどのような社会的責任を果たすべきなのか、考えていきたいと思います。
(2010/12/10)