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安全・安心な街づくり

 「春雨を待つとにしあらし我がやどの若木の梅もいまだ含(ふふ)めり」
(万葉集)

 現代で花見といえば桜ですが、奈良や平安の昔には百花に先駆けて咲く梅の方が桜より好まれたようで、万葉集には桜の約三倍、百二十首余りの梅の歌が収められています。公家の多くは、中国から生薬の一つとして伝わった梅を庭木として植え、薬としての効用よりも花と香りの美しさを愛でました。

 花の筆頭が梅ならば、江戸の街の安全と安心を脅かす筆頭は火事でした。明暦の大火は、明暦三年一月十八日(新暦一六五七年三月二日)、つぼみのままの若梅が春雨を待つ頃の江戸で起こりました。振袖火事とも呼ばれるこの火事は、東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除いて日本史上最大のもので、暴君ネロの時代に起きたローマ大火(六四年)とロンドン大火(一六六六年)と並んで世界の三大火事の一つです。今冬、日本列島の太平洋側は記録的な少雨でしたが、このときの江戸も前年十一月から八十日以上雨が降っておらず、非常に乾燥した状態が続いていて、ひとたび火事が起これば大火となるのはそれこそ火を見るより明らかでした。死者は十万人に達したといわれ、江戸城の天守閣・本丸・二の丸をはじめ、外堀以内のほぼ全域と市街地の大半を焼き尽くす大災害だったのです。

 この大火後に幕府が行った対策は、道の拡幅や武家屋敷・寺院の移転による火除地の形成、類焼しやすい庇の禁止、避難経路となる橋と河岸通りの整備と管理、人口密集緩和のための市街地開拓や埋立てによる宅地造成、幕府直属の消防組織である定火消の整備などで、後の江戸の都市計画や消防制度の基盤となりました。しかしこれらは、当時としては可能な限りの対策ではあったものの、「火事を起こさない」というよりは「火事はおこる」ことを前提とし、延焼防止と安全な避難路の確保に重心がおかれたものでした。その理由は、江戸があくまで江戸城と武家屋敷を中心とした軍事都市であり、市街に初期消火のための水を常備することはあっても、町屋自体の防火性能にお金をかけるという発想がなかったためです。実際、明暦の大火以降も火事はなくならず、江戸時代の約二百六十年間に五十回近くもの大火が江戸で起きています。

 一方、同時期に大火に見舞われたロンドンは、江戸同様、城郭のあるローマの軍事都市として始まりましたが、当時既に千六百年余りの歴史を持つ成熟した街でした。十七世紀のイギリスは、王政を引いていたものの植民地支配と国際貿易を急拡大する大航海時代で、鎖国を始めたばかりの江戸とは正反対でした。大火にあったシティは、国際貿易を担う自由市民の自治区で、独自の警察機能を持つなど民主的な機運が強い地域でした。統治者のイングランド王の本拠地も、シティではなくウェストミンスターにあったのです。従って、ロンドン大火の再建策は、王ではなく市民を守ること=「火事を起こさない」ことが焦点となりました。市民の生活と財産を守るため、世界で初めて火災保険ができたのもロンドン大火がきっかけです。公的な対策としては、道の拡幅・直線化や広場の整備などの延焼防止策と避難経路の確保はもちろん、石炭税の導入による復興資金の確保と家屋を石造りか煉瓦造りに限定する建築規制、即ち、建物の不燃化が採用されました。特に建築規制は大変有効だったようで、この後ロンドンでは二度と大火は起きていません。それゆえ、後の都市計画では世界中でこの再建計画が手本とされました。日本では封建制崩壊後、明治時代になってから東京の丸の内と銀座などに煉瓦街が取り入れられます。

 同年代に起きた二つの街の大火とその対策が教えてくれるのは、火事という同じリスクへの対策であっても、守る対象が異なると打つべき対策とその結果が著しく変わるという事実です。これはリスクすべてにいえることで、もちろん現代の街づくりにも該当します。

 広辞苑によれば、安全とは「安らかで危険のないこと」で、安心とは「心配・不安がなくて心が安らぐこと」です。安全・安心な街づくりは誰もが望むことですが、「誰の安全・安心のために、何の安全・安心を守るのか」という原点を思い起こすことこそが、セキュリティを実現する鍵となるのではないでしょうか。
(2011/02/25)