「大海の限りも知らぬ浪の上にあはれはかなく舟のゆく見ゆ」
その勝元が眠る龍安寺で最も有名なのが、枯山水の方丈石庭です。1975年、英国のエリザベス女王が日本を公式訪問した際、石庭の見学を希望し絶賛し、海外で大きく報道されたことが世界各地でZEN(禅)ブームに拍車をかけたといわれています。このため、今でも龍安寺には外国から多くの人々が訪れます。
枯山水とは庭園様式のひとつで、池や遣水などの水を用いず、石や砂などにより山水の風景を表現します。白砂や小石を敷いて水面に見立て、帚目や時には石の表面の紋様で水の流れを表すのです。室町時代の禅宗寺院で多く用いられ、禅問答のように抽象的な表現の庭として発達しました。龍安寺の石庭はその傑作と言われています。
どちらが当たったと思いますか?
結果は断然、キツネ派の方でした。自分がよく知っているひとつの大事なことを他の分野にも拡大解釈しようとするハリネズミ派よりも、一元化に疑問をもち、多くの分野を学んで視野を広げることに努め、固定化せずに幅を持たせた考え方をするキツネ派の方が、未来を予測する力が勝っていたというのです。
恐らくハリネズミ派は、石庭の解釈を固定化しそこから抜け出すことはできないのでしょう。彼らは自らの知識によって石庭の見る方向を固定し、14個の石があるひとつの風景を見ることしか永遠に知りえないのです。対してキツネ派は自分の知識を疑い、見る方向を様々に動かすため、結果的に14個の石があるおよそ無限の風景を見る可能性を持っているのです。もしかしたら、14個しかないこと自体を疑って自ら高く跳び、15個全てを見ようとするかもしれません。
室町時代の武将、細川勝元が詠んだ歌です。将軍に次ぐ役職である管領(かんれい)を務めた勝元は、応仁の乱の東軍総大将でしたが、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された寺社群のひとつ、龍安寺(りょうあんじ、京都府)を創建するなど、禅宗に深く帰依したことでも知られています。
その勝元が眠る龍安寺で最も有名なのが、枯山水の方丈石庭です。1975年、英国のエリザベス女王が日本を公式訪問した際、石庭の見学を希望し絶賛し、海外で大きく報道されたことが世界各地でZEN(禅)ブームに拍車をかけたといわれています。このため、今でも龍安寺には外国から多くの人々が訪れます。
枯山水とは庭園様式のひとつで、池や遣水などの水を用いず、石や砂などにより山水の風景を表現します。白砂や小石を敷いて水面に見立て、帚目や時には石の表面の紋様で水の流れを表すのです。室町時代の禅宗寺院で多く用いられ、禅問答のように抽象的な表現の庭として発達しました。龍安寺の石庭はその傑作と言われています。
土塀に囲まれた75坪に、草木を用いず、ただ帚目を付けた白砂と15個の石組のみを置いた龍安寺の石庭。これが一体何を意味するのか。その解釈は諸説あります。最も有名なのが、15個の石組に作庭意図を求める解釈でしょう。一見、無造作に置かれているように見えますが、意図的に、どの角度から見ても石は14個しか見えないという構図にしているというのです。これについては、龍安寺の茶室に水戸光圀が寄進したといわれる「吾唯足知(われただたるをしる)」の蹲(つくばい)があることから、「14個見えることに満足することを知れ」との解釈がよく知られていますが、逆に「14個しか見えないこと」を表しているという解釈もあります。つまり、人間は存在しているもの全てが見えると確信しているが、見えるものの陰には、見えないもの、確かめることができないものが必ずあるのだということ、また、見る場所によって、見ることができない1つの石は変わってしまうという認識の限界を表しているというのです。
この認識の限界への人間の対応について、面白い研究結果があります。米国の政治学者で心理学者でもあるフィリップ・テトロックが1980年代の終わりから10年以上かけて行ったもので、「キツネとハリネズミの違い」と呼ばれるものです。考えを頻繁にかえるキツネ派と大事なひとつのことに固執するハリネズミ派とに歴史家を分類した英国の政治哲学者アイザック・バーリンの理論に基づいたもので、数百名の経済学、国際関係論、政治学の名だたる専門家たちをキツネ派とハリネズミ派とに分け、かつ、各人に5年先程度の近未来予測をしてもらい、誰の予測が当たったかを調べるというものでした。
どちらが当たったと思いますか?
結果は断然、キツネ派の方でした。自分がよく知っているひとつの大事なことを他の分野にも拡大解釈しようとするハリネズミ派よりも、一元化に疑問をもち、多くの分野を学んで視野を広げることに努め、固定化せずに幅を持たせた考え方をするキツネ派の方が、未来を予測する力が勝っていたというのです。
恐らくハリネズミ派は、石庭の解釈を固定化しそこから抜け出すことはできないのでしょう。彼らは自らの知識によって石庭の見る方向を固定し、14個の石があるひとつの風景を見ることしか永遠に知りえないのです。対してキツネ派は自分の知識を疑い、見る方向を様々に動かすため、結果的に14個の石があるおよそ無限の風景を見る可能性を持っているのです。もしかしたら、14個しかないこと自体を疑って自ら高く跳び、15個全てを見ようとするかもしれません。
冒頭の歌と同じく、日本は、今、東日本大震災という荒れた大海原に漂う船のようです。危難を回避し、その船を目的地に進めるためには、今までのものの見方を疑うことを知り、大凪に櫂がなければ風を呼ぶくらいの奇想天外な発想ができるキツネ派的資質が求められているのではないでしょうか。
(2011/07/25)