17:27

学問と良心

「良心を持つだけでは十分ではない。大切なのはそれをうまく使うことだ」
(ルネ・デカルト)

 米国演劇界で最も権威ある賞、トニー賞も受賞した英国人戯作者マイケル・フレインの傑作「コペンハーゲン」は、この言葉を想起させます。この戯作には、デンマークの物理学者ニルス・ボーアとその妻マルグレーテ、ドイツ人物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクのたった三人しか登場しません。

 一九二一年、量子力学の先駆けとなる原子模型を考案したボーアがコペンハーゲンに開いた研究所には、外国から物理学を志す学者がたくさん集まりました。ハイゼンベルクはその一人です。彼は、師ボーアのもとで量子力学の重要な原理、不確定性原理(uncertainty principle)を導き出し、師に続いて一九三二年、三十一歳の若さでノーベル物理学賞を受賞しています。ボーアは不確定性原理についての「コペンハーゲン解釈」でも有名です。

 戯曲は、第二次世界大戦中の一九四一年、母国ドイツに戻ってナチスドイツの原子爆弾開発チーム「ウラン・クラブ」の責任者となっていたハイゼンベルクが、原子核分裂の予想という原爆開発における重要な理論根拠を編み出したボーアを再び訪れたという史実を下敷きにしています。このときコペンハーゲンはナチスドイツの占領下にあり、ユダヤ系のボーアはナチスの監視対象だったといわれます。マルグレーテはハイゼンベルクの訪問を好ましく思っていなかったこと、ボーアとハイゼンベルクは夕食後、マルグレーテを家に残して二人だけで散歩に出たこと、短い散歩から帰ってきた二人は完全に決裂した様子で、ハイゼンベルクは直ちにボーアのもとを去ったことが史実としてわかっていることです。しかし、敵対する立場の二人が散歩の間にどのような会話を交わしたのかはわかっていません。この謎をめぐって戯曲は展開します。

 三人の対話から浮かび上がる解釈のひとつは「ハイゼンベルクがボーアをナチスの原爆開発に引き入れようとして、ボーアから拒絶された」というものです。ユダヤ人核物理学者を全て追放したナチス政権下にあって、ユダヤ系のボーアをチームに引き入れること自体無謀なのにこの説が出たのは、ボーア自身がそう信じていたようだからだといわれます。妻のマルグレーテは、いまや科学的権威になりおおせた夫のかつての弟子が、ナチスドイツの占領下で汲々としている夫に自慢をしにきただけだと思っていたようですが。

 そして、もうひとつの「コペンハーゲン」解釈が「ハイゼンベルクは、莫大な資金が必要であるにしても原理的には原爆の製造が実現可能なことを重々承知した上で、原爆開発の是非と連合国軍はそれをどう思っているのかについて、ボーアにヒントなりアドバイスを求めたが拒絶された」というものです。即ち、悪のための戦いには許されない手段も、善のための戦いの手段としては許容される技術があったという歴史を、恐らくは十万人以上を一瞬で殺傷できる原爆にあてはめてよいのかという良心に基づく疑念について、父とも慕う師の教えを請いたかったというのです。この解釈の裏付けとされるのが、ドイツの原爆開発計画の失敗です。この解釈では、意図的に原爆に必要なウラン量を過度に見積もって実現不可能とみせかけるなどの方法で、祖国が属してしまったナチスという体制をハイゼンベルクがうまくかわし、大戦中には原爆開発が成功しないようチームを誘導したとされます。

 結局、真相は戯曲でも歴史でも闇の中で、定かではありません。しかし、ハイゼンベルクが自伝で書き記したとおり「専門家とは、その専門とする部門において起こり得る最も重要な間違いのいくつかを知っており、だから、いかにすればそれを避けられるかがわかる人」なのは、明白な事実ではないでしょうか。

 米国に渡ったボーアは、戦後、核を中心とした軍拡競争を憂い米欧ソ連も含めた原爆の管理及び使用に関する国際協定の締結に奔走しましたが、願いは叶いませんでした。原爆の威力を目の前にして、核保有に基づく力のバランスに世界が走り出した後では、ボーアが国際連合に公開書簡を送っても遅かったのです。

 これから学問は、東日本大震災によって白日に晒された数多くの未知若しくは既知の脆弱性にとりくむことになります。そのとき、学問を担う者には全て、冒頭の言葉とハイゼンベルクの専門家についての示唆に富んだ言葉を忘れないでいてほしいものです。
(2011/08/10)