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実名に潜む匿名性

「なつかしき 色ともなしに 何にこの 
すえつむ花を 袖にふれけむ(光源氏)」


 源氏物語第六帖「末摘花(すえつむはな)」の巻名歌です。末摘花ことベニバナは、古くから茎の先に咲く花だけを摘み取りって化粧の紅などの染料として使われました。江戸時代には「紅一匁(もんめ)金一匁」といわれるほど大変高価なものだったといわれます。

 光源氏は、紅をもしのぐ高貴な血筋であるのに父宮である常陸宮亡き後零落してしまった悲劇の姫君という噂と、黒髪豊かな美しい後姿を持つ常陸宮姫に憧れと好奇心を抱き、熱心に恋文を送ります。しかし、親友の頭中将と競ってまで逢瀬を果たした姫君は、気位ばかりが高く後朝の歌も満足に詠めない世間知らずで、あげく象のように大きくて先っぽが紅色の鼻を持つ不美人でした…。

 平安の昔、貴族の姫君が人前に出ることはめったにありませんでした。宴の席であっても御簾や几帳で人目から十重二十重に守られた姫君の姿を知るには、御簾越しにほのかに垣間見るなり、巷の噂を集めるなりして想像をめぐらすしかなかったのです。だからこそ、末摘花の例も生まれたのでしょう。

 源氏のように、美しい後姿に惹かれて顔を確かめずに後を追いかけてしまう心理は現代でも変わっていないようで、この心理を突く犯罪がソーシャルネットワーキングサービス(SNS)上で横行しています。

 会員に実名利用を推奨しているSNSを使っているあなたに、ある日、長年連絡を取っていないけれど下の名前だけ憶えている学生時代の仲良しと同じ名前の人から「いきなりで申し訳ないが、どうしてもお話したいことがある」というメッセージが届いたら、あなたは返信せずにいられますか。

 思わず返信すると、返事を待ちわびていたと矢のような速さ(三分後!)で返信が来ます。長くなるからと十分後に改めて丁重な長文メールを送ってきた相手は、芸能事務所のマネージャーを名乗り、「仕事上のストレスから精神的に参っている担当タレントがSNS上のあなたのページを見て、たっての希望で友達になってほしいと言っている」と訴えます。芸能関係ということでタレント本人の名前は、あなたが友達になることを承諾しないと明かせないが、関係者専用のSNS(最初のメッセージが届いたSNSとは別)を通じてのやりとりから始めてほしいとURL付きのメッセージが届くのです。昔なじみかもしれない相手を信じてURLをクリックすると、運営者情報の記載が一切無いSNSらしきページに飛ばされ、簡単なID登録の後、最終的には有料の出会い系サイトに誘導され高額な利用料を請求されるというのが手口です。

 この手口の巧妙さは、全ての人が心に持つ過ぎ去った日々の想い出への憧憬を追わせる点にあります。実名や出身校を頼りに懐かしい人を探し、思い出を掘り起こすことができるSNSだからこそ、このメールが届いたのだと思い込ませるのです。芸能人のマネージャーを名乗る同様の手口は、ハンドルネーム(匿名)で参加する形式のSNSでも横行していましたが、実名利用というルールを逆手に取った心理術を加えることによって更に被害を広げています。実名利用のSNSだから安心と思っていても、実名登録の可否や登録・退会の権限が不特定多数の会員の意思に委ねられている以上、偽名で悪事を行う者だけスクリーニングすることは容易ではありません。残念ながら、SNSの世界も現実の世界と同じで、全ての人が善意で行動するとは限らないのです。

 常陸宮姫は姿こそ芳しくありませんでしたが、源氏を想う一途な気持ちに嘘はありませんでした。源氏は姿よりその心根を愛し、妻の一人として認め生涯面倒をみたとされます。

 懐かしい人の後ろ姿を追いかけて、懐かしくも心根も美しくない末摘花を摘んでしまうという誤りを犯さないためにはまず、実名にも匿名性が隠されうるということに気が付くことが大切なのです。
(2011/08/25)