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地図と地理情報

 「ちはやぶる神の御坂に(ぬさ)まつり(いは)命は母父(おもちち)ため(神人部子忍男


 信濃国出身の防人が筑紫に派遣されるときに詠んだ歌です。

 神の御坂は、岐阜県と長野県の境にある神坂峠と言われ、標高1576m、次の宿場までの距離が約40kmもあり、当時の旅人にとっては天候変化が激しく急峻な難所でした。ここを通る旅人は、この難所に住まう荒ぶる神をなだめるために、御幣を奉って通行の無事を祈願したそうです。しかし、防人は自分のいのちのためでなく、故郷に残した両親のために祈ると言い、その後ろ髪を引かれるような思いが読む人の胸を打ちます。

 旅に身の危険が伴ったこの時代に、僧・行基は古式の日本地図「行基図」を作成したと伝えられています。行基が本当に「行基図」を作成したのか疑問視されてはいますが、日本全国を歩き回り、多くの寺院開基や、橋や港の整備、更には用水路などの治水工事を行ったとされる行基には、大変ふさわしい逸話でしょう。

 この「行基図」には、平安京のある山城国を中心とし、俵状の諸国と五畿七道の街道とで日本列島の大まかな輪郭を表されています。つまり、「地名」と「道」の「配置」と「かたち」という地図の主要な要素が紙(平面)に表わされているのです。

 「行基図」は江戸時代まで使われましたが、「配置」を経緯度線で示す「位置」に進化させたのが、水戸藩に仕えた長久保赤水の「赤水図」です。1779年に出版された「赤水図」は、日本人が出版した初めての経緯度線が入った地図として有名です。ドイツのシーボルト・コレクションなど海外の博物館等にも多く収蔵されており、当時の欧米において日本を知る貴重な資料でした。

 それを更に進化させたのが有名な伊能忠敬の「伊能図」です。経緯度による位置情報に加え、実測することでより精度を高めた「伊納図」は、現在の国土交通省国土地理院が作成する20万分の1の地図「地勢図」の元になるなど、近代日本の行政地図の基本図となりました。

 地図は、私たちが住む地球の地表の全部またはある一部分を縮小表現したものです。つまり、地図には私たちの生活に関わるすべての情報を載せることができるといえます。実際「行基図」の時代には、地図とは国と道の位置関係という情報を可視化するものでしたが、現代ではコンピュータ等の進化により、膨大なデータを扱う地理情報システム(GIS、Geographic Information System)というシステムに発展しています。GISには、二次元の地図はもちろん三次元表示や移動・回転、地図の重ね合わせ、属性による色や線の変更が瞬時にできるなど、紙の地図の時代では考えられないほど高度な機能が実装されています。特に、地図の重ね合わせは様々な空間情報の相関関係を可視化することに優れており、都市計画など従来の地図利用に加えて、洪水や地震ハザードマップに代表される防災分野や、犯罪密度分布の推定など犯罪抑止にも役立っています。昨年(2009年)の新型インフルエンザ(A/H1N1)発生時には、新潟県柏崎市が、市内小中学校や保育園・幼稚園のインフルエンザ発症状況についてGISを利用した情報をホームページに公表するなど感染症予防に役立てたケースもあり、社会の安全と安心を守る情報インフラのひとつとしてGISが重要な役割を担っています。

 しかし、これらGISの利用が、主に特定の空間情報を静止画像としての地図上に表すことに留まっているのは残念なことです。今や、携帯電話でインターネットにつなぎ、お店の住所を入力すれば、最短距離と到着予測時間をナビゲートしてくれる世の中です。例えば、郵便番号とキーワードを入力すれば、誰もが河川の危険地域の推移や避難所までの行き方が簡単にわかるようなシステムがあれば便利でしょう。

 防人の時代には、嵐は荒ぶる神が起こすものと考えられ、いつ来るか予測不可能な代物でした。現代でも自然災害を予測するのは大変難しいことです。しかし、自分と脅威の位置関係を知ることは危機管理の出発点であり、それを示した地図が身を守るための便(よすが)であることは間違いありません。

 地理情報を有機的かつ高度に利用することにより、社会を守るための情報が必要な時、必要な場所に届く社会システムを築くことが望まれます。
(2010/11/25)

10:55

師弟関係の絆

(うえ)天共(てんとも)(そら)とも(いい)(なか)(とおる)(くも)なり、月日(つきひ)(いづ)る方を東とし、入方(はいるほう)は西、ひがしに(むかい)て、右の方を南とし、左の方を北と(いう)

 これは、江戸時代、東日本地域の寺子屋で使用された教科書のひとつ「近道(ちかみち)子宝(こだから)」のはじめの部分です。8才から9才で寺子屋に入った子どもが「いろは歌」を学んだ後で使われました。簡単な地理から衣食住の基本、禁裏(天皇)と城(公方)や神仏の違い、武士と百姓の持ち物などを言葉の連鎖で答えることで、生活に必要な言葉を学べるようになっています。「近道子宝」を終えた後は、人の名前を並べた「源平(げんぺい)」、日本国66カ国と2島の「国尽(くにづくし)」や商取引に使う言葉とあらゆる商品の名前を並べた「商売(しょうばい)往来(おうらい)」に手習いが進みます。

 こうした教科書は、寺子屋の師匠がそれぞれ独自に作っていました。「商売往来」だけでも何百種類もあるといわれています。また、明治期まで義務教育制度ではなかったため、親は子どもにどのような教育を受けさせるか自ら選びました。そのために私塾・寺子屋の番付までありました。入学時期も入学年齢もばらばらだったため、教育カリキュラムも筆子(ふでこ)と呼ばれた生徒一人ひとりに合わせて師匠が考えました。現代と異なり、完全に民間に任されたオーダーメイドの教育だったのです。

 徳川がもたらした天下泰平の世の中は、農村、城下町などの地方都市、江戸・京都・大阪を結んだ一大市場を形成し、未曾有の経済発展を生み出しました。今と同じで、モノよりカネ(貨幣)がものをいい、御家流(おいえりゅう)で書かれた幕府の御触れなど、文書による契約が社会の基本原則になったのです。これは、武士以外の庶民、例えば農民であっても年貢の領収書や金銭貸借の証文が読めないと、無事に世間を渡っていけないことを意味しました。「読み・書き・算用」を教える寺子屋の発生は社会の当然の要請であり、江戸時代の就学率は、幕末の嘉永年間(1850年頃)の江戸府内で70~86%と推計されるほどでした。産業革命後の同時期(1837年頃)のイギリスでは、主な工業都市での就学率が20~25%と言われていますから、世界的にみても驚異的な数字でした。

 また、江戸時代には、人としての礼儀作法を身につけていない者に教育を受ける資格はないという思想が社会の根底にありました。寺子屋の師匠は「読み・書き・算用」に加え、筆子の礼儀作法にも厳しい目配りし、一人前にするという使命を担っていたのです。そして「師弟は三世の契り」という言葉に表されるように、師匠と筆子との関係の多くは師匠が亡くなるまで続く人生の縁(よすが)でした。人生の師たる亡き師匠のために、筆子が費用を出し合って墓を建てる事が珍しくないほど師弟関係は濃密でした。欲得抜きで実用の学問から道徳まで教えてくれる師匠は聖職であり、社会から「お師匠さま」と最高級の尊敬語で呼ばれたのだといわれます。数多くの師弟の縁(よすが)が、社会を信頼という絆で支えていたのです。

 尊敬する人との出会いは一生の財産です。その縁(えん)が、学校という学びの場で得られた利害関係のない師との関係であれば、厳しい人生を生きる縁(よすが)となるでしょう。

 現代日本の教育システムには莫大な資金が投入され、維持されています。しかし、就学年齢の100%入学という数字以外の価値が失われてしまっているのが実態ではないでしょうか。そのひとつが師弟関係の絆という信頼関係であり、そうした数字に表れない価値の喪失が不登校や学級崩壊などに結びついてはいないでしょうか。

 近年、江戸時代を再評価する動きが見られます。今さら江戸時代には戻ることはできませんが、今の私たちの姿を見直す鏡として、先人の知恵ほど身近なものはないのではないでしょうか。
(2010/07/10)