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グローバリゼーション

 「紫は 灰指すものそ ()石榴()(いち) 八十(やそ)(ちまた) 逢へる子や誰」
(万葉集)

 古代紫の染色に使われた椿の灰にちなむ、海石榴市(奈良県)で出逢った女性の名を男性が問う歌です。海石榴市は日本最古の市場です。この地は当時の主要な街道が始まる場所であり、水運の要衝でもありました。これが八十のちまたです。物資とともに多くの人が行き交う市場には、歌垣という出会いの場がありました。男性と女性が歌を詠みあい、今でいう婚活をしたのです。

 この優雅な婚活の横では、あらゆるものが取引されていました。河港に隣接し、船による物資搬入が盛んな海石榴市には、国内外から多数の物資が運び込まれました。記紀を紐解くと、飛鳥時代には公式の市以外での商品取引は禁止されており、公式市場でも許可を得た業者しか店を出せなかったといいます。取引方法などについても細かい規則があり、商品は公定価格で取引され、計量に用いる升や天秤は検定を受けました。まさに、現代の貿易そのものです。そして、市を往来したのは、ヒトとモノだけではありませんでした。日本への仏教伝来の第一歩として、仏像と経典を携えた百済の使者が上陸したのも、遣隋使の小野妹子が唐の使者と上陸したのも海石榴市です。宗教、海外情勢(情報)、隋や唐といった東アジアの先進国の制度や技術、文化も市場を通して往来したのです。経済的あるいは社会的なつながりが、国家や地域などの境界を越え、地球規模に拡大して様々な変化を引き起こす現象「グローバリゼーション」の始まりです。

 第二次世界大戦後に始まったといわれる現代のグローバリゼーションの背景として忘れてはならないのが民主主義国家の増加です。戦争の終結(1945年)時点で22カ国しかなかった民主主義国家は、今では世界の独立国約190カ国の半数を超えるといわれ、半世紀で5倍近くになりました。そしてこれはまず、企業に大きなビジネスチャンスをもたらしました。ソ連崩壊に代表される社会主義という名の国家主義の衰退が産業の民営化を促進し、広大な新しい市場を出現させたのはその一例です。多くの企業がチャンスを求めて国境を超え、強大な多国籍企業となりました。官(或いは専制)から民、即ち企業に大きな力が移行されたのです。一方、民主主義精神の普及は、社会にも力を与えました。人みなすべて平等との意識の下、社会を構成する市民一人ひとりが自らの権利を主張し、擁護する社会ができあがったのです。

 チャンスから得るリターンが大きければ大きいほど、リスクも大きくなるのが世の常です。企業にとって大きくなったリスク、それは、グローバリゼーションによって拡大したステークホルダーの範囲と、民主主義精神の浸透によるステークホルダーたちの権利意識の増大です。インターネットの普及は、この二つの拡大スピードを更に上げ、それに企業の意識が追いついていないのが現実です。ステークホルダーの企業に対する期待と企業の意識とのギャップ、それこそが米国で提唱されている新しい企業リスク「ソーシャルリスク」なのです。

 ソーシャルリスクは、社会が何を考えているか、そして何を企業に期待しているかを企業が理解しなければリスクとして認知されません。これまでのリスクマネジメントでは、レーダーにかかりにくいリスクです。例えば、米国系清涼飲料メーカーが操業するインドのある州で深刻な水不足が生じたことがあります。工場が取水しすぎるからではないかと地元住民に非難されたこのメーカーは、水源が異なるから自社のせいでないことを証明しても抗議行動が収まらないのを見て、すぐさま自社の技術を活用して地域の井戸を改善し水不足を解消しました。地域社会に水不足という問題があるのに、企業がボトル飲料を大量に製造しているというギャップ、このソーシャルリスクに対する解決策として、コミュニティへの参画と開発を行ったのです。これは、企業が社会的責任を果たした好例です。そして、社会の期待に沿って適切に責任を果たしたからこそ、数年後に反米感情が高まって州政府が工場閉鎖命令を出した際にも、地域住民がそれを阻止する側にまわってくれたのです。

 グローバリゼーションが加速度的に進む現代において、異なる文化圏の人々が共有できる価値観の創出はリスク解決手段の一つとして大変重要です。企業の社会的責任は、単なる倫理観を超えて、ソーシャルリスクを認知し、解決の糸口を探す価値観のものさしなのです。
(2011/02/10)

11:10

アカウンタビリティ

 「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」



 お正月の定番、小倉百人一首に収められた山部赤人の歌です。目の前に広がる田子の浦(静岡県)の青い海辺と、純白のヴェールをかけたような冬の白富士との対比。そしてこの景色から、富士の頂きに白雪が音もなく降り積もるさまを想う心。三十一文字で表された絵のような世界は、日本人であれば誰もが感動する幽玄の世界です。日本語では、春霞に浮かぶ山桜や緑濃い深山にかすかに聞こえるせせらぎの音の美しさを同じく「幽玄」という言葉で表現しますが、幽玄を英語で表すのは難しいようです。それは、空と砂と風だけの世界である砂漠の国で生まれたキリスト教を精神的支柱とする西欧社会において、自然とは人が支配するものだったからではないでしょうか。

 日本人は、万葉の時代から自然に対して畏怖と親(ちかし)さを併せもっていました。八百万の神を生み出した日本の多彩で千変万化の自然は、不可抗の威力と恩恵とを同時に与えたからです。日本では、自然が人を支配してきたのです。対して旧約聖書では、天地創造の場面で神が人に対してこう告げます。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」

 この、神によって権威づけられた地の支配者としての人の責務はマスターシップと呼ばれます。人(マスター)は、快適で合理的な生活を実現するために自然を征服し利用してよいとの解釈は、20世紀半ばまでキリスト教社会の根幹でした。これが転換されたのは戦後の高度成長による先進国での大気汚染や水質汚濁等の環境問題が急激に顕在化した1960年代以降です。キリスト教の内外から、環境破壊の歴史的根源はマスターシップにあるという強い非難が巻き起こり、自然に対する聖書の解釈は、マスターシップからスチュワードシップに転換されました。これは同時に、社会がアカウンタビリティ(説明責任)を求める時代に入ったことを意味しました。

 スチュワードシップもアカウンタビリティも、マスターシップと同じく聖書にその起源を見ることができます。一番わかりやすいのは、主人から委託された財産を使い込んでしまった家令(スチュワード)が会計報告書を出すことを求められる(アカウンタビリティ)という新約聖書ルカ福音書16章の悪い家令のたとえでしょう。これは、現代の会計におけるアカウンタビリティの起源です。また、主人からの預託金の運用とその説明についての責務を問う新約聖書マタイ福音書25章のタラントのたとえもよく引用されます。主人(神)と家令(人間)との委託関係(スチュワードシップ)を前提とするこのたとえでは、神から委ねられた才能(タラントから転じてタレント)を最大限に生かしたかどうか、最後の審判で神に申し開きするのがアカウンタビリティとなります。そして、いずれのたとえでも、スチュワードシップとアカウンタビリティはセットで語られるのです。

 この二つのたとえに登場する家令は、エコノミー(経済)と同源のギリシャ語オイコノミスで、現代英訳ではマネジャーと表記されます。日本でマネジャーといえば、課長や部長あたりを想像しますが、本来は経営に責任を持つもの、つまり経営者を指します。マネジャーは、委託者である株主だけでなく公的な委託(キリスト教社会では神に応える責任)にも責任があります。マネジャーは、スチュワードシップ(業務遂行責任)についてアカウンタビリティ(説明責任)を負っているのです。

 ここで大切なのは、すべては一時的に神から預けられているという意識とそれに対して取らされる神への責任であるということです。こう書くとキリスト教社会ではない日本では浸透しづらい概念となってしまうので、少々乱暴ですが、黄泉の国の入り口で閻魔大王に申し開きをするといったイメージに置き換えるとわかりやすいかもしれません。閻魔帳にはすべての行いが書かれていますから、嘘をついたら舌を抜かれて地獄に落とされます。さて、あなたは事業が正しく行われているかどうか閻魔大王に説明できるでしょうか。閻魔大王に堂々と説明できること、それは社会に対して説明することと同じです。そして、事業についてアカウンタビリティ(説明責任)を果たすことこそが、社会の信頼を得るために企業の社会的責任に取り組むはじめの一歩となるのです。
(2011/01/10)