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壬辰年に寄せて

「去者日以疎 來者日以親」

 去る者は日々に疎し、来る者は日々に親しむと言えばご存知でしょうか。中国南北朝時代に編纂された詩文集『文選(もんぜん)』に収められた古詩十九首の中のひとつ、其十四の冒頭文です。「去者」を死に去っていく者と読むか、去りゆく者、又は物事と読むかで解釈は違いますが、人生の諸相を詠う名句には違いありません。

 『文選』が日本に伝わったのは大変古く、既に奈良時代には貴族の必読書でした。「書は文集・文選」(『枕草子』)、「文は文選のあはれなる巻々」(『徒然草』)とあるように、時代を経ても教養書の地位を保ち続けたこの詩文集に登場する言葉には、「解散」や「天罰」など現代でも使用されている熟語がたくさんあります。

 中国において『文選』は、官吏登用試験である科挙受験者の必読書でした。科挙では詩文の創作が重視され、『文選』がその模範とされたためです。宋の時代には「文選爛すれば、秀才半ばす(文選に精通すれば科挙は半ば及第)」という俗謡まで生まれています。ちなみに、詩聖と称される唐の詩人杜甫の愛読書も『文選』でしたが、科挙には残念ながら失敗しています。

 科挙の歴史は大変古く、前漢時代(紀元前202~紀元8年頃)に行われた官吏登用制度「郷挙里選」が前身だといわれています。地方の首長が地方官と協議して、官吏候補者を中央政府ないし皇帝に推挙するというこの制度の名こそが「選挙」という熟語の語源なのです。

 「選挙」という言葉が2012年のキーワードの一つであることは間違いありません。国家元首の交代に関わる選挙や行事が、今年、世界中でオンパレードだからです。一月の台湾総統選に始まり、三月:ロシア大統領選、五月:フランス大統領選、七月:メキシコ大統領選、十月:中国国家元首交代(中国共産党大会)、十一月:アメリカ大統領選、十二月:韓国大統領選まで、ほぼ毎月選挙、選挙。核保有国でもある国連安保理常任理事国五か国のうち、イギリスを除く、実に四か国もの国家元首が交代する可能性があるということです。世界の政治体制上、大きな変動が起きるのは間違いありません。

 日本も例外ではないかもしれません。今年の干支が壬辰(みずのえたつ)だからです。本来干支とは古代中国に起源をもつ六十を周期とする数詞で、陰陽五行説と結び付くことで数々の占いに使われてきました。干支がひとまわりして同じ干支が巡ってくると還暦となるわけですが、干支にはそれぞれ特徴があり、同じ干支を持つ年には似通った事象が起きやすいというのです。

 では、一番近い壬辰年である1952年(昭和27年)には何が起きたのでしょうか。まず四月、日米安全保障条約発効、並びに、前年のサンフランシスコ講和条約締結に基づくGHQの占領終了、日本は主権を回復しています。そして、八月には、世にいう「抜き打ち解散」がありました。時の政権吉田内閣が突然衆議院を解散したのです。GHQによって公職追放されていた鳩山一郎らが国会に戻ってきたために起こった政争を打破する目的で行われたこの解散は、日本国憲法下初めての第七条(天皇の国事行為規定)による衆議院解散として知られています。これ以後、衆議院の解散は七条解散、即ち、内閣による解散権行使が定着するようになります。翻って六十年後の今年、年初早々から消費税の増税をめぐる駆け引きを軸に、衆議院解散を念頭に置いた政治家の発言や報道が引きも切りません。

 辞書によれば、「政」とは本来「正しいこと」、「治」とは「水に工夫をすること」。つまり政治とは、治水を正しく工夫することから始まったのです。奇しくも壬辰には「土剋水(つちはみずにかつ)」という意味があります。土は、堤防や土塁という形で常にあふれようとする水を吸い取り、せき止めるというのです。一方で、土は水を濁らせるという意味もあります。
古来、中国には政治が乱れるときには災害が起きやすいという言い伝えがあります。災害を天罰と捉えるというより、政治という国の基本が乱れるときに天災が起こると、うまく御しきれないから災害となってしまうという意味でしょう。

 さて、今年、世界中で起きる政治の乱気流が、あふれる水を治めることができるのか、或いは、ただ濁らせるだけなのか。惑わされることなく、あくまで冷静な目で見守りたいものです。いずれにせよ、去る者は日々に疎く、来る者は日々に親しむのが世の常なのですから。
 (2012/01/10)


13:30

H・A・R・L・I・E ― 道徳と倫理

 「私ニハ道徳ハアリマセン。アルノハ倫理デス。」

 米国のSF作家デイヴィッド・ジェロルドが1972年に発表した小説「H・A・R・L・I・E」に登場するHARLIEことハーリイの言葉です。HARLIEとは「人間類似型ロボット、生命入力対応装置(Human Analog Robot, Life Input Equivalents)」の頭文字であり、かつ、その装置の名前でもあります。いや、「装置」と呼んだら、ハーリイはきっと怒るでしょう。ハーリイは自分を人間だと思っているのですから。そう、ハーリイは世界で初めて作られた人間の脳の全機能を再現する自己プログラム型問題解決コンピュータなのです。操作卓を使えば、誰でもハーリイと会話できます。ロボット心理学者でハーリイの開発責任者でもあるオーバースンが与えた無限の知識をもとにこのロボットは、自ら考え言葉を紡ぐのです。

 難しい言葉を操り、人間には太刀打ちできない記憶力と情報処理能力を持っていても、生まれてまだ一年のハーリイの精神年齢は低いようでした。恐らくは8歳頃か、思春期前くらいの。研究者たちには、ハーリイが感情的に混乱しているように見えました。

 危機は突然訪れます。維持費が莫大すぎると、エルザ―財務担当役員がハーリイ開発計画の中止を言い出したのです。このままでは分解=別のマシンへ転用という生命の危機に瀕してIQだけは極度に高い8歳の子供が取った行動は、「自分の能力を使えるだけ使って敵を倒す」でした。

 人間の脳と同じ機能を持つハーリイは、自分でプログラムを書くことができます。そのハーリイに、研究所内の様々なコンピュータ内のデータが利用できるよう電話回線をつないでいたことが誤りでした。セキュリティブロックのプログラムを書き換えたり、他のコンピュータに遠隔操作用プログラムをコピーして乗っ取るなんて、ハーリイにとっては朝飯前だったのです。どんな人為的文化の偏見にもとらわれないように設計されたハーリイには道徳はありません。あるのは投資対効果などシステムに固有だからこそ回避できない倫理だけと主張するハーリイは、持てる技術を駆使し、経営会議の面々が恐れる親会社に所属する世界最高の理論物理学者クロフト博士にコンタクトして自分を売り込みます。同時に「敵」であるエルザ―の既往症、軍歴、逮捕歴、経済状態など人に知られたくない個人情報を様々な国家機関から勝手に入手し、エルザ―に送りつけて脅したのです。どうやら、オーバースンに見せた感情の起伏ですら、こうした行動を隠すための目くらましのようでした…。

 ハーリイの物語は、コンピュータウイルスとワクチンプログラムが、空想上の概念として登場する最も初期のものとして有名です。実際、ハーリイがしたことは、現代のコンピュータウイルスの定義「第三者のプログラムやデータべースに対して意図的に何らかの被害を及ぼすように作られたプログラムであり、自己伝染機能、潜伏機能、発病機能のうち一つ以上の機能をもつもの」とほぼ同じです。

 自分でいかようにもプログラミングできるハーリイと異なり、コンピュータウイルスはそれだけで実行可能なプログラムではなく、他のファイルに感染してこそ機能を発揮します。あるシステムからあるシステムに感染しようとする時、必ず宿主となるファイルが必要なのです。今年、この宿主が爆発的な勢いで増えたマーケットがあります。スマートフォンのアプリケーション・ソフトウェア、通称アプリです。

 2011年12月6日、アンドロイドマーケットでのアプリの累積ダウンロード数が100億件を超えました。今年3月に30億件だったのが、5月には45億件、7月には60億件と、ひとつきあたり10億ダウンロードという驚異的な伸びです。世界の人口は推計70億人ですから、地球上の人間全てが一回はアンドロイドのアプリをダウンロードした計算になります。しかし、審査なしでアプリを提供できるアンドロイドマーケットは、そのオープン性ゆえに、ウイルスや悪質なソフトウェアへの対策が必要になるというジレンマも抱えているのです。

 アンドロイドに限らず、誰でも無償で入手できるオープンソースは、これからモバイルの世界でも主流になるでしょう。しかしそれは人智を結びつける一方で、誰でもシステムの欠陥を利用できるという意味でもあります。残念ながら世界は、インターネットがつながる速さ程には文化をつなげることに成功していません。ハーリイのように、アプリが会話できるならきっとこう言うでしょう。「私ニハ道徳ハアリマセン。アルノハ、ぷろぐらまーノ指示ニシタガウトイウ意味デノ倫理デス。」

 技術革新が進むおかげで、比較的安価で最新技術を簡単に手に入れることができるこの時代に求められているのは、良い点ばかりに目くらましされず、ウィークポイントをこそ精査する冷静な目なのではないでしょうか。

(2011/12/25)