11:10

アカウンタビリティ

 「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」



 お正月の定番、小倉百人一首に収められた山部赤人の歌です。目の前に広がる田子の浦(静岡県)の青い海辺と、純白のヴェールをかけたような冬の白富士との対比。そしてこの景色から、富士の頂きに白雪が音もなく降り積もるさまを想う心。三十一文字で表された絵のような世界は、日本人であれば誰もが感動する幽玄の世界です。日本語では、春霞に浮かぶ山桜や緑濃い深山にかすかに聞こえるせせらぎの音の美しさを同じく「幽玄」という言葉で表現しますが、幽玄を英語で表すのは難しいようです。それは、空と砂と風だけの世界である砂漠の国で生まれたキリスト教を精神的支柱とする西欧社会において、自然とは人が支配するものだったからではないでしょうか。

 日本人は、万葉の時代から自然に対して畏怖と親(ちかし)さを併せもっていました。八百万の神を生み出した日本の多彩で千変万化の自然は、不可抗の威力と恩恵とを同時に与えたからです。日本では、自然が人を支配してきたのです。対して旧約聖書では、天地創造の場面で神が人に対してこう告げます。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」

 この、神によって権威づけられた地の支配者としての人の責務はマスターシップと呼ばれます。人(マスター)は、快適で合理的な生活を実現するために自然を征服し利用してよいとの解釈は、20世紀半ばまでキリスト教社会の根幹でした。これが転換されたのは戦後の高度成長による先進国での大気汚染や水質汚濁等の環境問題が急激に顕在化した1960年代以降です。キリスト教の内外から、環境破壊の歴史的根源はマスターシップにあるという強い非難が巻き起こり、自然に対する聖書の解釈は、マスターシップからスチュワードシップに転換されました。これは同時に、社会がアカウンタビリティ(説明責任)を求める時代に入ったことを意味しました。

 スチュワードシップもアカウンタビリティも、マスターシップと同じく聖書にその起源を見ることができます。一番わかりやすいのは、主人から委託された財産を使い込んでしまった家令(スチュワード)が会計報告書を出すことを求められる(アカウンタビリティ)という新約聖書ルカ福音書16章の悪い家令のたとえでしょう。これは、現代の会計におけるアカウンタビリティの起源です。また、主人からの預託金の運用とその説明についての責務を問う新約聖書マタイ福音書25章のタラントのたとえもよく引用されます。主人(神)と家令(人間)との委託関係(スチュワードシップ)を前提とするこのたとえでは、神から委ねられた才能(タラントから転じてタレント)を最大限に生かしたかどうか、最後の審判で神に申し開きするのがアカウンタビリティとなります。そして、いずれのたとえでも、スチュワードシップとアカウンタビリティはセットで語られるのです。

 この二つのたとえに登場する家令は、エコノミー(経済)と同源のギリシャ語オイコノミスで、現代英訳ではマネジャーと表記されます。日本でマネジャーといえば、課長や部長あたりを想像しますが、本来は経営に責任を持つもの、つまり経営者を指します。マネジャーは、委託者である株主だけでなく公的な委託(キリスト教社会では神に応える責任)にも責任があります。マネジャーは、スチュワードシップ(業務遂行責任)についてアカウンタビリティ(説明責任)を負っているのです。

 ここで大切なのは、すべては一時的に神から預けられているという意識とそれに対して取らされる神への責任であるということです。こう書くとキリスト教社会ではない日本では浸透しづらい概念となってしまうので、少々乱暴ですが、黄泉の国の入り口で閻魔大王に申し開きをするといったイメージに置き換えるとわかりやすいかもしれません。閻魔帳にはすべての行いが書かれていますから、嘘をついたら舌を抜かれて地獄に落とされます。さて、あなたは事業が正しく行われているかどうか閻魔大王に説明できるでしょうか。閻魔大王に堂々と説明できること、それは社会に対して説明することと同じです。そして、事業についてアカウンタビリティ(説明責任)を果たすことこそが、社会の信頼を得るために企業の社会的責任に取り組むはじめの一歩となるのです。
(2011/01/10)

11:07

サステナビリティ

 「私は流行をつくっているのではない。スタイルをつくっているの」

 20世紀を代表するフランスのデザイナー、ココ・シャネルの言葉です。シャネルと言えばマリリン・モンローが愛した香水No.5を思い出す方が多いかもしれません。しかし、それより早くシャネルがつくりだしたもの、それがジャージー(ニット)のドレスでした。20世紀初頭のヨーロッパの女性たちのドレスは、どれもレースで飾り立てられコルセットで締め付けられる窮屈なものでした。ある日、男物のセーターを着てみて体が開放される感動を味わったシャネルは、それまで下着にしか使われなかったジャージー素材で動きやすく着心地の良いドレスを作り、大評判となりました。シャネルが提案したジャージーをアウターに使うという価値観の変換は、単なるファッション(流行)に留まらずスタイルとして現代まで続いています。他にも男物のスラックスを女性用に転用したパンツ・ルックやミリタリー・ルック、喪服の色である黒を普段使いとしたエレガントなリトル・ブラック・ドレスなど、シャネルが初めてファッションに取り入れスタイルとして定着したものは数え切れません。

 1980年代後半以降メディアで喧伝されるようになったサステナビリティという言葉も、単なる流行語ではなくスタイルとして世の中に定着しつつあるようです。地球に優しいライフスタイルを提案するサステナブルファッションをはじめ、エコ家電にハイブリッドカーとサステナブルな製品がもてはやされています。このサステナビリティという言葉は、前回取り上げた「持続可能な発展(sustainable development)」に由来します。この言葉は1987年に国連に答申された報告書「われら共通の世界」で使われました。「将来の世代のニーズを損なうことなく、今日の世代のニーズを満たすような開発」というのがその定義で、これに対する賛同の輪が瞬く間に世界中に広がり、「持続的な発展」の恩恵を受ける企業は、これを支えるために社会的責任を果たさなければならないとされるようになったのです。

 異なる世代間の不平等をなくすというこの定義が広く受け入れられたのは、この言葉が先進国と発展途上国で異なる解釈を可能にするからだといわれています。即ち、発展=開発の時代は終わったと考える先進国は、従来の一方的な開発のあり方を否定し持続可能性の実現に焦点を置きます。対してこれから発展=開発に取り掛かる発展途上国は、開発自体を否定するのではなく、持続可能性の実現に配慮する開発のありようを考えればよいと解釈するのです。開発によって環境破壊が進む可能性が高いことは明らかなのにも関わらず、環境と開発に矛盾はなくむしろ調和すべきだとする「持続可能な発展」という言葉は、利害関係が対立する国際社会にとって大変便利な言葉であり、政治的な色合いが濃い言葉でした。

 たとえ国際的に広く使われる言葉であっても、先日閉会したCOP16の議論のように政治的な意図で玉虫色の解釈が許されるのであるならば、現実的かつ具体的な問題解決の糸口とはなりません。この点が企業の「持続可能な発展」への取り組みの足かせとなっています。しかし、月面着陸したアポロ11号の映像が示したとおり、地球上に存在する誰もが、企業も人間も動物も植物も「地球号」の乗組員=運命共同体で、乗り組む「地球号」は、今、温暖化や異常気象という名の悲鳴を上げているということは紛れもない事実です。

 サステナビリティに取り組むということは、現在と未来の「地球号」の乗組員を守ること、即ち、誰でもない私たち自身の現在と未来を守ることだということを改めて認識することが必要なのではないでしょうか。セキュリティ業界も例外ではありません。

 さて、シャネルの言葉には続きがあります。「流行は色褪せるが、スタイルだけが不変なの」

 「持続可能な発展」に始まる企業のサステナビリティへの取組みが単なる流行ではなく、ビジネスのスタイルとして定着することが望まれます。
(2010/12/25)