「チェスは知性の試金石である」
わかりやすくするために、あるモデルに単純化して研究したり教えたりすることは学問の世界ではよくあることです。実際、進化論を学ぶ教材として学術書『鼻行類』は第一級のものでした。
遊びであれ学問であれ、シミュレーション・ゲームに共通するのは、砂盤のような盤上における全情勢を具体的に外観することと、盤上で取りうる選択肢を選ぶことです。学術書『鼻行類』の場合、ハイアイアイ群島が「盤」であり、その「盤」の中で取りうる選択肢に基づいて進化のシミュレーションが行われています。つまり、ナゾベームは「盤」の中でのみ生きていることが前提です。「盤」の外にいるかどうかは、通常、検証されません。シミュレーションの目的が「盤」の中の期待値を計算することだからです。そして、「盤」の外である地球上全てに「盤」を広げたとき、ナゾベームはブラックスワン(発生確率が非常に小さい事象)になってしまい、その存在の信憑性は一気に下がってしまうのです。
このような発生確率の議論もまた、原子力発電所のリスク評価にあてはまるようです。現在世界中で採用されている原子力発電所の確率論的リスク評価は、二つの出来事が重なる確率がそれぞれの発生確率の和や積になるような独立事象の集まりであることを仮定=「盤」としています。従って、今回の福島第一原子力発電所の事故のように、設計上想定していない巨大地震と巨大津波に引き続き、情報連携の遮断と多重防護システムのダウンに伴うヒューマンエラーが短時間で次々に連鎖していくような事故は「盤」の外、ブラックスワンです。しかし、スリーマイル原発のときも、原子炉内の事故の発生が示されていないのにアラーム信号が次々に点灯するという事象の重なりに、動転した作業員が自動的に起動した安全装置のスイッチを手動で切ってしまうという事象が連鎖したことが過酷事故につながりました。この事故も「盤」の外、ブラックスワンです。しかし、これらの事故は本当にブラックスワンだったのでしょうか。仮定=「盤」の方にこそリスクを見通す甘さがあったのではないでしょうか。
“まれ”もしくは“偶然”とは、人間が解明していない規則性です。ナゾベームの存在とハイアイアイ群島という環境モデル、いったいどちらがブラックスワンなのか。科学の衣をまとった信憑性の確からしさを見極めるよすがとは、提示された「盤」は、誰かが何らかの目的で単純化したモデルにすぎないということを知ることなのではないでしょうか。冒頭のゲーテの言葉が示す通り、今こそ「盤」を見極める知性が試されるときなのです。
(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)
シミュレーション・ゲームと言えば、コンピュータを思い浮かべる方が多いかも知れませんが、紀元前の古代インドに起源をもつチェスや遣唐使が伝えたとされる囲碁など、盤上(ボード)ゲームは全てシミュレーション・ゲームです。古くから武人が行ってきた戦術や戦略を練るための砂盤作戦もその一種で、そのせいか囲碁や将棋は日本の多くの武人に愛されました。中でも徳川家康は「将棋所」を設けて囲碁と将棋の上手に俸禄を支給し、「御城碁」を創設するなど、これらの振興に多大な貢献をしたといわれています。
遊びのイメージが強いシミュレーション・ゲームですが、学問の世界でも使われることをご存知でしょうか。例えば、前回ご紹介した一つもしくは複数の鼻で歩く哺乳類「鼻行類(別名ナゾベーム)について書かれた学術書『鼻行類』には、進化論のシミュレーション・ゲームの傑作という評価があるのです。この本によれば、ナゾベームが住むハイアイアイ群島は、他の生態系から影響を受けない孤立した群島とされています。つまり、不確定要素の影響を排除した真空の実験室としてハイアイアイ群島というモデルを設定し、そのモデルの中での哺乳類の一分類群の適応放散(生物の進化に見られる現象のひとつで、単一の祖先から多様な形質の子孫が出現すること)をシミュレーションしているというのです。
わかりやすくするために、あるモデルに単純化して研究したり教えたりすることは学問の世界ではよくあることです。実際、進化論を学ぶ教材として学術書『鼻行類』は第一級のものでした。
遊びであれ学問であれ、シミュレーション・ゲームに共通するのは、砂盤のような盤上における全情勢を具体的に外観することと、盤上で取りうる選択肢を選ぶことです。学術書『鼻行類』の場合、ハイアイアイ群島が「盤」であり、その「盤」の中で取りうる選択肢に基づいて進化のシミュレーションが行われています。つまり、ナゾベームは「盤」の中でのみ生きていることが前提です。「盤」の外にいるかどうかは、通常、検証されません。シミュレーションの目的が「盤」の中の期待値を計算することだからです。そして、「盤」の外である地球上全てに「盤」を広げたとき、ナゾベームはブラックスワン(発生確率が非常に小さい事象)になってしまい、その存在の信憑性は一気に下がってしまうのです。
このような発生確率の議論もまた、原子力発電所のリスク評価にあてはまるようです。現在世界中で採用されている原子力発電所の確率論的リスク評価は、二つの出来事が重なる確率がそれぞれの発生確率の和や積になるような独立事象の集まりであることを仮定=「盤」としています。従って、今回の福島第一原子力発電所の事故のように、設計上想定していない巨大地震と巨大津波に引き続き、情報連携の遮断と多重防護システムのダウンに伴うヒューマンエラーが短時間で次々に連鎖していくような事故は「盤」の外、ブラックスワンです。しかし、スリーマイル原発のときも、原子炉内の事故の発生が示されていないのにアラーム信号が次々に点灯するという事象の重なりに、動転した作業員が自動的に起動した安全装置のスイッチを手動で切ってしまうという事象が連鎖したことが過酷事故につながりました。この事故も「盤」の外、ブラックスワンです。しかし、これらの事故は本当にブラックスワンだったのでしょうか。仮定=「盤」の方にこそリスクを見通す甘さがあったのではないでしょうか。
“まれ”もしくは“偶然”とは、人間が解明していない規則性です。ナゾベームの存在とハイアイアイ群島という環境モデル、いったいどちらがブラックスワンなのか。科学の衣をまとった信憑性の確からしさを見極めるよすがとは、提示された「盤」は、誰かが何らかの目的で単純化したモデルにすぎないということを知ることなのではないでしょうか。冒頭のゲーテの言葉が示す通り、今こそ「盤」を見極める知性が試されるときなのです。
(2011/06/10)