9:56

舟中規約

「狂瀾怒濤は険也と雖も、
還って人欲の人を溺れしむるに如かず」

 荒れ狂う大海の大波が恐ろしいとはいえ、人が欲に溺れるのに比べればそれほどではない。豊臣秀吉が始めた朱印船貿易で財を成した、京都の豪商角倉(すみのくら)家の「舟中規約」第四条の冒頭文です。「舟中規約」に誓約しなければ、角倉船に乗ることは許されませんでした。これを定めたのが、高瀬川などの河川開発事業で有名な角倉了以(りょうい)の長子、素庵(そあん)です。日本朱子学の祖といわれる藤原惺窩(せいか)に教えを仰いで共に作ったと言われます。

 素庵は実業家ですが、学究肌の文化人で、若い頃は父の反対を受けながらも惺窩のもとに通い学者を目指していました。林羅山を惺窩に推挙することで、羅山が徳川家康の師となる道を作ったのは素庵です。能書家としても知られ、書の教えを受けた本阿弥光悦と共に「寛永の三筆」のひとりにもなっています。隠居後は版元として出版業に携わり、光悦や俵屋宗達と共に古活字の傑作「嵯峨本」を刊行したことでも知られます。嵯峨本は日本の活字・印刷文化の最初期の書籍群で、そのうちの一つ「嵯峨本徒然草」上下巻が、三月下旬に京都で開催される古書展に五千万円で出品されると話題になっています。大変美しい行・草書体の漢字とひらがなからなる活字の書き手は光悦だというのが通説ですが、素庵という説もあります。文字はもちろん、雲母粉を刷り込んだ「雲母(きら)刷り」の紙を多用するなど、装幀の美を追求しつくした豪華本で一時代を築いた嵯峨本は、後の木版印刷につながる印刷技術の基盤となりました。

 しかし、何と言っても素庵の本業は、父の跡を継いだ国内外の交易と河川開発でした。中でも、朱印船貿易では日本国回易大使司という公的地位を務め、京都の伝統工芸品の需要を伸ばし、新たな技術開発や生産効率の飛躍的な向上に貢献しました。金銀、絹織物、屏風、陶芸、漆器など高値で取り引きされる積荷を満載した船を往復する朱印船貿易は、当時、一回の渡航で何万両もの巨利を得られるビックビジネスでした。主に安南国(今の北べトナム地方)と往来した角倉の船は、800トン積みで長さ20間(約36メートル)、幅9間(約16メートル)、乗員は400人近くという朱印船の中でも群を抜く巨大さで、渡航回数も最多を誇っています。角倉家は、この事業で国家予算規模の河川開発事業をも担えるほどの資本基盤を築いたのです。

 一方で貿易船の航海は海賊の被害などが非常に多く、大変危険なものでもありました。角倉船も何度か危険に遭遇したと言われます。この長期に渡って大人数で挑む危険な航海生活の規範として定められたのが「舟中規約」です。些細な事柄を別決めした第五条を除くとたった四条の短いものですが、世界を相手にする経済活動の倫理綱領として、グローバリゼーションが進む今日においても十分に通用する内容となっています。

 まず、第一条で自利利他の精神を説きます。貿易とは他にも己にも利益をもたらすためのものであり、他に損失を与えることで己の利益を得るものではない。他と己とが共に利すれば、たとえその利がわずかであっても得るところは大きいと説くのです。

 第二条は異邦人蔑視の戒めです。人間の本性はいずれの国でも同じ、お互いの共通するところを忘れて風俗や言語など異なるところばかり嘲るような心ないふるまいをして日本の恥を晒すな、異国で人徳の優れた人に会ったなら、師と仰いでその国のしきたりを学び、かの地の習慣に従えと説きます。

 第三条は相互扶助の精神。人間みな兄弟だから、病に飢え、寒さなど苦しいときこそ助け合え、苦しさから一人だけ逃げようなどと考えるなと説きます。そして、第四条が前述の自らの欲への戒めです。

 素庵が生きた時代から四百年後の現代、世界はこの四つの戒めを守れているでしょうか。今世紀に入って以降、リーマンショックの一瞬の時期を除いて高騰を続ける原油価格の動向を考えると、守れているとはとても思えません。

 西側諸国とイランの緊張の高まりや民主化の影響をはじめとした中東情勢の不安定さ、中国やインドなどの新興国の飛躍的な原油需要拡大、需給逼迫による価格高止まりを見越したヘッジファンドなどによる原油先物への投機等々、原油価格上昇の主因とされる全ては、人間の欲に端を発しているようです。しかし、欲は、朱印船貿易や嵯峨本のように文明を進歩させもすれば、滅ぼしもするのです。

 国際通貨基金(IMF)が指摘するように、原油価格の上昇は世界経済に対する新たなリスクとして認識されつつあります。「舟中規則」に習って異邦人蔑視を止め、自利利他と相互扶助の精神で、人の果てしない欲望に箍(たが)をはめる方法を見つけないと、世界が欲の波に溺れてしまう日も近いのではないでしょうか。
(2012/03/25)


9:39

不確かさの地図を描く -シナリオ・プランニング-

「大抵の場合、人は好んで己が欲するものを信じる」

 ユリウス・カエサルの「ガリア戦記」に登場する言葉です。

 カエサルの副将ティトリウス・サビーヌスは、ガリア北部(現在の仏ノルマンディー地方)の戦闘で、補給線を襲うウネッリ族の大軍からカエサルの後背を守る別働隊を指揮していましたが、好機に恵まれず、長期戦を余儀なくされていました。有利な地形に陣を敷いてはいるもののそこから動かず、敵が仕掛けて来るのを慎重に待つサビーヌスを、敵はもちろん味方も腰抜け扱いしますが、それこそが彼の作戦でした。サビーヌスは、頃合を見計らって、ローマ軍の逃亡兵のふりをさせた配下のガリア人を敵陣に送り込みます。「ウェネティ族に苦戦しているカエサル支援のため、明晩には退却するだろう」というデマを流すために。予想外の長期戦に苛立っていたウネッリ族はこの情報に飛びつき、今がチャンスとばかりに準備も十分にせずにローマ軍に急襲を仕掛けるのですが、有利な地形で待ち構えていたサビーヌスとの戦闘は当然不利で、大敗を喫するのです。

 カエサルは、サビーヌスの躊躇、ウネッリ族に補給路を断たれたことによる食糧不足、ウェネティ族に対して好戦的、そして脱走兵の証言というローマ軍に関する四つの独立事象がローマへの急襲というウネッリ族の行動を引き起こしたと分析しています。なぜなら大抵の場合、人は好んで己が欲するもの(情報)を信じるからです。

 カエサルの時代から二千年以上経った現代でも、この言葉は通用するようです。わが国に導入された事業継続マネジメント(BCM)が、欧米のBCMと異なり、大規模地震や新型インフルエンザ等の特定災害におけるひとつのシナリオに基づく対策のマニュアル化をその中心としてしまったのもその一例でしょう。大規模地震を最大の脅威とみなすわが国固有の事情もあり、防災に代表される原因を管理(抑制)する原因管理の思想の下、「原因=特定災害を想定すれば、災害シナリオも想定できる」という、多くの人が信じたい思想を信じてしまったのです。

 しかし実際には、ロジックとしてどんなに精緻な災害シナリオを描いても、そのシナリオが既知の変数(過去)のみに基づくものである限り、未来に起きる災害がシナリオ通りに起きる保証はどこにもないのです。既知、即ち過去の知見には、実際に起こったことの全てが含まれているわけではなく、未知、或いは不確かさが含まれているのですから。東日本大震災は、災害とはもともと不確かなものだという事実を私たちに改めて突き付けたように思います。現実の災害は、人間が勝手に作ったシナリオ通りには進みません。マニュアル化はある程度のところまでしかできず、結局は状況に応じた臨機応変な対応をするしかないのです。

 一方で、事態の進展に応じて不確かさ=リスクを正しく認識し、対処するのは大変難しいのも事実です。一般に人間は、リスクの評価については近視眼的になり、不確かな選択肢からの選択に際しては臆病になる傾向があります。東日本大震災でも「原発事故でSPEEDIの結果を不確かだといって無視した」、「100mSv以下の放射線量に安全・危険の区分をつけたがる」といった不確かさへの反発や無視が見られました。

 では、どうすればよいのでしょうか。まずは、どれだけ科学技術が進歩し、文明が高度化しようとも、世の中には人智では計り知れない不確かなことがあるという事実を、勇気を持って受け入れる度量を持つことが大切でしょう。これは、リスクを真に理解することと同義であり、不確かさに振り回されずに「利用」する第一歩です。

 また、不確かさに対応するための心の準備も大切です。このために有効とされているのが、欧米企業で事業戦略の立案や危機管理等に活用されている「シナリオ・プランニング」です。起こり得る未来を、誰もが理解しやすい複数の物語(シナリオ)という形で仮想的に経験することで心の準備をし、変化の予兆を見逃さず、不確かさに対応できるような事前策を練る手法ですが、「複数の未来」の実現可能性の確率は求めません。眼前にある状況がこれからどう進展していくのかなどの不確かな点も含めて大まかな未来の地図を描き、組織を構成する人々がそれを等しく経験し共有しておくことに意義があるからです。前述のサビーヌスとウネッリ族との戦いに例えれば、ローマ軍に関する四つの独立事象を扱うとき、ウネッリ族が採用した己に有利なシナリオだけではなく、敵方に有利なシナリオも考えて皆で共有し、策を講じるということです。

 不確かさに対応するときに大切なのは、間違った方向に行くことを避け、大まかな正解にたどりつくことです。冒頭のカエサルの言葉を忘れず、ぼんやりとしたものでもよいから不確かさの地図を描いてみることから始めてみませんか。
(2012/03/10)


9:31

春の始まり時の刻み

「年のうちに春は来にけりひととせを
去年(こぞ)とや言はむ今年とや言はむ(在原元方)」

 古今和歌集の冒頭歌です。「このうた、まことに理(ことわり)つよく、又をかしく聞えてありがたくよめるうたなり(藤原俊成)」とか「實に呆れ返つた無趣味の歌に有之候。日本人と外國人の合の子(原文のママ)を日本人とや申さん外國人と申さんとしやれたると同じ事にて、しやれにもならぬつまらぬ歌に候(正岡子規)」など、古来様々に評されてきたこの歌の主題は、「年内立春」という暦と歳時のズレです。

 天体の動きに基づく暦法のうち、太陽の運行に基づくものを太陽暦、月の運行に基づくものを太陰暦、太陽と月の運行に基づくものを太陰太陽暦と呼びますが、古代中国で古くから使われたのは太陰暦でした。しかし、当然ながら太陰暦は太陽の動きとは無関係に計算されるため、暦と実際の四季との間にズレが生じてしまうところが農耕などに不便でした。そこで本来の季節を知る目安として考案されたのが、「二十四節気」を用いた太陰太陽暦(旧暦)です。

 太陽の動きに基づき節分を基準として1年を24等分し、約15日ごとに季節を分ける二十四節気では、分け目となる日にそれぞれ季節に相応しい名を付けました。立春は節季の第一で、雨水は第二です。太陰太陽暦では月の満ち欠けで日決めするため、一日は必ず朔(新月)の日となります。また、古代中国夏王朝の暦法に倣い、春の始まりと年の始まりを一致させるため、正月(一月)には必ず雨水を含む月が当てられました。この二つを両立させるために生じたズレが年内立春と新年立春です。立春翌日から雨水当日までの約15日間に朔があれば、立春は前年十二月となり年内立春です。逆に、その期間に朔がなければ、立春は翌年一月、即ち新年立春となるのです。旧暦ではだいたい19年中10年が年内立春、9年が新年立春で、年内立春は珍しいことではありませんでした。

 新暦(太陽暦/グレゴリオ暦)に変わった今でも、こうした暦と歳時のズレがあるのは周知のことです。四年に一度の閏年にあたる今年には、二月二十九日という閏日でズレが調整されます。それでは「閏秒」なるものがあるのはご存知でしょうか。

 かつて世界標準時は、経度零度で有名な英国グリニッジ天文台での天体観測に基づいて定めた太陽時:グリニッジ標準時(GMT)でした。現在ではGMTに代わって、国際協定に基づき、数十万年に一秒ずれるだけの高精度な原子時計で計る国際原子時(TAI)と、地球の自転に基づく世界時(UT1)の二つからなる協定世界時(UTC)が使われています。TAIとUT1とでほとんど違いはないのですが、時間の経過と共にズレが生じることがわかっています。原子や分子の動きと異なり、海の満ち引きや昨年の東日本大震災のような大規模地震等がブレーキとなって、地球の自転周期が年々少しずつ長くなってしまうためです。このTAIとUT1のズレを0.9秒未満に調整するため、数年に一度、世界中で挿入されるのが閏秒です。そして、今年の七月一日、三年半ぶりに閏秒が実施されことになりました。

 実は、閏秒はコンピュータの普及を背景に廃止論が高まっている制度です。通例、一月一日か七月一日の午前8時59分59秒(日本時間)の後に、実際には使われていない「60秒」が閏秒として挿入される仕組みなのですが、閏日のようにサイクルが決まっているわけではないため自動化することができません。だいたい数年に一度のペースで、地球の回転の観測を行う国際機関から都度通知があり、世界中で手動による調整を行うわけですが、うまく調整できなければコンピュータ内部の時計が誤作動する恐れがあるとされ、時刻が重要な指標となる電子認証や株の売買などでトラブルを引き起こすかもしれないのです。

 十年前からこの問題を議論してきた国連の専門機関、国際電気通信連合は、先月開催された総会で、主に日本や米国が主張した廃止提案の採否を先送りしました。グリニッジ天文台を持つ英国が一貫して主張したように、閏秒挿入のリスクよりズレに伴う混乱のリスクのほうが大きいとする存続派の主張が通ったかたちです。

 閏秒の制度が導入された1972年以降40年間で、閏秒を入れなかった場合に生じたはずのズレは34秒。六~七百年のスパンで計算しても30分から1時間というこのズレを考えるとき、そもそも人間の都合でなんでもデジタルに割り切れると思う方が間違っているように思えるのです。春立つと聞けば、去年でも新年でも浮き立つ気持ちに変わりはないとする冒頭歌のような懐の深さをコンピュータに求めるのはどだい無理な話なのでしょうか。
(2012/02/10)



10:33

江戸の三貨制度

 「風流の三箱は隅田の雪月花」

 2012年1月23日、都心では6年ぶりの積雪でしたが、江戸の昔、隅田川に降る雪は水面に映る月や桜花と並んで千両に匹敵する絶景でした。とは言っても「千両の重み家内が持ってみる」なんて経験ができるのはほんの一握り。「千両の箱は外から見たばかり」と庶民が拝めるのは外箱ばかりで、それも「哀れさは千両箱に鰹ぶし」というような末路にお目見えする程度でした。江戸時代、庶民が日常的に使ったのは「両」で数える小判ではなく、銀や銭だったからです。

 江戸でのお金の使われ方は、現代からみるとかなり複雑です。幕府という一つの行政機関の下で、一枚の額面が決まっている計数貨幣である「金」と「銭」、取引の都度重さを量って価値を決める秤量貨幣「銀」の三つの貨幣が同時に流通していたからです。現代の感覚からすれば金・銀・銭の順で価値が高いと考えがちですが、そうではなく、それぞれ別々の経済価値を表していました。日本国内に、円とドルとユーロが同時に流通しているイメージです。このように、三つの貨幣それぞれが対等な本位貨幣として流通する仕組みを三貨制度といい、世界でも珍しい制度でした。

 「東の金遣い、西の銀遣い」といわれるように、三貨の主な流通地域は異なりました。銭は全国的に使われましたが、江戸など東国では金、大阪など上方では銀が主に使われたのです。また、商取引に必要な貨幣は取引量や品物の種類によっても変わりました。金極(きんぎめ)、銀極(ぎんぎめ)、銭極(ぜにぎめ)といい、商慣習の一種です。「極(きめ)」とは今も使う「月極」と同じで、例えば「銀極」なら銀で決済することです。材木、呉服、薬種など上方商人が取り扱うことが多い商品は、金遣いのはずの江戸でも銀極で取引されました。面白いのは職人の手間賃で、東西を行き来するためか銀極銭勘定(支払)です。一方、日雇の手間賃は、野菜や魚などの日用品や店賃などと同じく銭極でした。

 複数通貨の流通は、商売や旅行には両替が必須であることを意味します。実際、江戸の両替商は莫大な利益を得たとされ、両替コストが経済効率を圧迫している面もあったようです。しかしそうした面よりも、取引当時者間の合意のみで使用通貨を選択する自由度があることの方が、商人たちにとっては有益だったという説があります。銀の輸出と金の輸入との不均衡による金の暴落や、幕府の改鋳による貨幣価値そのものの変動など相場を考慮しながら、時宜に応じて最も有利な通貨を使い分けることができたからです。庶民にとっても、高額取引に使われる通貨と日常遣いの通貨の相場が分かれていることはメリットでした。金銀相場が乱高下しても、日常使うのは銭ですから生活への影響を免れる面も多かったというわけです。経済の内容や規模が異なる市場間を移動し、相対的に変化するモノやサービスの価値を、一つの通貨価値に固定せずに三つの側面から評価することによってうまく循環させるシステムだったというのです。

 今、ユーロが揺れています。様々な要因がありますが、経済の内容や規模が異なる国々の通貨を統合するという実験が失敗に終わるのではないかという考え方が、市場で力を持ち始めていることが根本にあるようです。欧州連合(EU)にとって、域内経済の不均衡は発足当初からの重要な政策課題ですが、様々な取り組みにも関わらず余り解消されていないというのがその理由の一つのようです。一人当たりGDPの順位(IMF; 2010年)でみても、178ヶ国中1位のルクセンブルグから73位のブルガリアまで大きな差があり、多様な経済活動がEU内に同居していると言えるでしょう。もしかしたら、こうした様々な活動を一元的な経済価値で示すこと自体に無理があるのかもしれません。「欧州統合は戦争か平和かの問題であり、ユーロが平和を保証している」(コール独元首相)という言葉が象徴するように、通貨統合を安全保障上の政治的意思と捉えるのであればなおさら、人々の活動や経済の多様性を容認する新たな考え方が必要とされているように感じます。

 「交換手段はもともと法律や社会的契約によって成立したのではなく、慣習によって成立したのである」と言ったのは、近代経済学の祖カール・メンガーです。今年でようやく流通十年を迎えるユーロのこれからを考える際、慣習をうまく使った江戸の三貨制度のアイディアが一つのヒントになるのかもしれません。
(2012/01/25)


10:45

壬辰年に寄せて

「去者日以疎 來者日以親」

 去る者は日々に疎し、来る者は日々に親しむと言えばご存知でしょうか。中国南北朝時代に編纂された詩文集『文選(もんぜん)』に収められた古詩十九首の中のひとつ、其十四の冒頭文です。「去者」を死に去っていく者と読むか、去りゆく者、又は物事と読むかで解釈は違いますが、人生の諸相を詠う名句には違いありません。

 『文選』が日本に伝わったのは大変古く、既に奈良時代には貴族の必読書でした。「書は文集・文選」(『枕草子』)、「文は文選のあはれなる巻々」(『徒然草』)とあるように、時代を経ても教養書の地位を保ち続けたこの詩文集に登場する言葉には、「解散」や「天罰」など現代でも使用されている熟語がたくさんあります。

 中国において『文選』は、官吏登用試験である科挙受験者の必読書でした。科挙では詩文の創作が重視され、『文選』がその模範とされたためです。宋の時代には「文選爛すれば、秀才半ばす(文選に精通すれば科挙は半ば及第)」という俗謡まで生まれています。ちなみに、詩聖と称される唐の詩人杜甫の愛読書も『文選』でしたが、科挙には残念ながら失敗しています。

 科挙の歴史は大変古く、前漢時代(紀元前202~紀元8年頃)に行われた官吏登用制度「郷挙里選」が前身だといわれています。地方の首長が地方官と協議して、官吏候補者を中央政府ないし皇帝に推挙するというこの制度の名こそが「選挙」という熟語の語源なのです。

 「選挙」という言葉が2012年のキーワードの一つであることは間違いありません。国家元首の交代に関わる選挙や行事が、今年、世界中でオンパレードだからです。一月の台湾総統選に始まり、三月:ロシア大統領選、五月:フランス大統領選、七月:メキシコ大統領選、十月:中国国家元首交代(中国共産党大会)、十一月:アメリカ大統領選、十二月:韓国大統領選まで、ほぼ毎月選挙、選挙。核保有国でもある国連安保理常任理事国五か国のうち、イギリスを除く、実に四か国もの国家元首が交代する可能性があるということです。世界の政治体制上、大きな変動が起きるのは間違いありません。

 日本も例外ではないかもしれません。今年の干支が壬辰(みずのえたつ)だからです。本来干支とは古代中国に起源をもつ六十を周期とする数詞で、陰陽五行説と結び付くことで数々の占いに使われてきました。干支がひとまわりして同じ干支が巡ってくると還暦となるわけですが、干支にはそれぞれ特徴があり、同じ干支を持つ年には似通った事象が起きやすいというのです。

 では、一番近い壬辰年である1952年(昭和27年)には何が起きたのでしょうか。まず四月、日米安全保障条約発効、並びに、前年のサンフランシスコ講和条約締結に基づくGHQの占領終了、日本は主権を回復しています。そして、八月には、世にいう「抜き打ち解散」がありました。時の政権吉田内閣が突然衆議院を解散したのです。GHQによって公職追放されていた鳩山一郎らが国会に戻ってきたために起こった政争を打破する目的で行われたこの解散は、日本国憲法下初めての第七条(天皇の国事行為規定)による衆議院解散として知られています。これ以後、衆議院の解散は七条解散、即ち、内閣による解散権行使が定着するようになります。翻って六十年後の今年、年初早々から消費税の増税をめぐる駆け引きを軸に、衆議院解散を念頭に置いた政治家の発言や報道が引きも切りません。

 辞書によれば、「政」とは本来「正しいこと」、「治」とは「水に工夫をすること」。つまり政治とは、治水を正しく工夫することから始まったのです。奇しくも壬辰には「土剋水(つちはみずにかつ)」という意味があります。土は、堤防や土塁という形で常にあふれようとする水を吸い取り、せき止めるというのです。一方で、土は水を濁らせるという意味もあります。
古来、中国には政治が乱れるときには災害が起きやすいという言い伝えがあります。災害を天罰と捉えるというより、政治という国の基本が乱れるときに天災が起こると、うまく御しきれないから災害となってしまうという意味でしょう。

 さて、今年、世界中で起きる政治の乱気流が、あふれる水を治めることができるのか、或いは、ただ濁らせるだけなのか。惑わされることなく、あくまで冷静な目で見守りたいものです。いずれにせよ、去る者は日々に疎く、来る者は日々に親しむのが世の常なのですから。
 (2012/01/10)